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カテゴリ:時事
妙に今年、終戦が気になる。
新聞に終戦詔書が載っていた。あらためて文章の凄さに感動。あらゆる関係者・関係機関にあてたまんべんないメッセージ。格調。それはいま書く術が失われたある種のビジネス文書書式にすぎないのかもしれないが。教科書に載せろとはいわないが、物心ついたときにどういう文であるか、というのを解説する価値はある。構成であるとか、音楽性であるとかそういう参考にはなるだろう。 この日、実家にいったので父親に聞いてみた。 よく、いろいろなひとの証言で「玉音放送」はコトバがみんなわからなくて、一部の学があるひとがわかったとかいってるけど、どうだった? いや、そんなことはなかったね。はじまってすぐにかなりの大人がわかっていたよ。それで泣き出したんじゃないかなあ。 ということは、負けだとわかっていたのが多くの大人で、ただ自分からは「真相」を言い出せなくて、「玉音」をもってようやくピリオドが打てた、というのが真相なのか、あるいはこの地域だけなのかはリサーチしないとわからないが。 すくなくともあの文章を書きコトバでなく、読み言葉としてとらえられる層がかつていたというのは驚嘆する。くだらないことまでテロップいれまくったバラエティに慣れた我々にはSFの世界の話であるけれども。 戦争の話は親からなんとなく聞いているつもりで、実は年齢によってとらえかたの角度も深さも興味も違う。と最近きづいた。自分がすきな話は、皇城のまわりに集まった民衆が土下座をしている写真についてのものだ。写真ではだれもが履物を目の前においているのだが。理由は「盗まれるから」らしい。そうなると、60数年前の日本人がいまの自分たちと変わらないじゃんと思う不思議。(♂) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年08月19日 00時20分57秒
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