|
カテゴリ:カテゴリ未分類
「からだの話」は難しいです。感覚に属することなので体験してもらえば言葉など必要がないのですが、逆に言葉では伝えることがなかなか困難です。感覚的に分かる人は、「そうそう」で済んでしまうのですが、分からない人は「頭」で理解しようとします。だから余計に分からなくなります。
R.シュタイナーの言葉も同じです。芸術家はシュタイナーの言葉を感覚的に聞きます。だから分かります。なぜならシュタイナーの言葉は「感覚の世界の言葉」だからです。でも、自分の感覚の世界に向き合ったことがない人はシュタイナーの言葉を「物質の世界の言葉」として、「頭」で理解しようとします。すると訳が分からない荒唐無稽な話になります。 「からだの話」もそれと似ています。 からだの話や、感覚の話の「本当に大切な部分」は言葉では伝えることが出来ません。そして現代社会の一番の問題点は、その「言葉では伝えることが出来ないこと」を切り捨ててしまっていることです。 また、そのため「言葉では伝えることが出来ないこと」を伝える方法も消えてしまいました。 そして、マスメディアが扱うことが出来ないようなことは「存在していないこと」「価値がないこと」になってしまっています。 でも、本当は、人間が人間らしく幸せに生きるために必要なものはその「言葉では伝えることが出来ないもの」なのです。 そして、これは人から人へ手渡しでないと伝えることが出来ません。 また、経済的な価値は皆無です。むしろ、経済的価値を無力にしてしまう力を持っています。 「テレビやエアコンに依存するより、窓を開け、野原に散歩する方がズーッといい」「過度の便利より適度の不便の方が丁度いい」という感覚の持ち主が増えたら、過剰に拡大しすぎてしまっている経済は確実に停滞してしまいます。 今は電力が不足して(真偽は不明)そのような考え方も違和感なく受け入れられていますが、原発が復活して電気が有り余るようになったら、そのような考え方は消えていくでしょう。今は「頭の判断」で我慢しているだけだからです。 「言葉では伝えることが出来ないこと」は模倣によって伝わります。なぜなら、「言葉では伝えることが出来ないこと」を受け取るためには、「頭」ではなく、感覚を通して「心」や「からだ」で直接受け止める必要があるからです。 それはつまり、どんなに伝えたいと思っていても、相手が「模倣」という形で受け取ってくれないことには伝えることが出来ないということです。そして、その「模倣」が発生するためには、あこがれや信頼関係が必要になります。 子どもはお母さんから、この「言葉では伝えることが出来ないこと」をいっぱい受け取っています。なぜなら子どもはお母さんが大好きだし、お母さんの言葉を「頭」ではなく「心とからだ丸ごと」で受け取っているからです。 そして、その受け取ったものによって、子どもの「無意識の世界」が創られていきます。言葉で伝えることが出来ることは「意識の世界」に入り、言葉では伝えることが出来ないことは「無意識の世界」に」入っていくのです。 だからこそ重要なのですが、だからその価値が見えないのです。 先生が生徒を信頼し、生徒が先生にあこがれていると、子どもはその先生から勉強だけでなく「言葉では伝えることが出来ないこと」もいっぱい学ぶことが出来ます。壺井栄の「二十四の瞳」の世界です。 今では古くさい考え方のようですが、でも、「そのようなつながりを通してしか伝わらない事がある」ということも事実なんです。「生きる力」「生きる喜び」もまたそのようなつながりを通してしか伝わりません。 今、「子どもたちの生きる力を育てよう」という活動が盛んです。でも、「生きる力」は大人から子どもへと伝わるものであって、マニュアル的な方法で育てることなど出来ません。大人が子どもを信用、信頼し、子どもは大人にあこがれを持っているつながりの中で「生きる力」も育っていくのです。 でも、ここでもまた非常に大きな問題があります。今の多くの大人達は、子どもたちを信用も、信頼もしていないということです。学校や社会はもちろん、親でさえそのような人が増えてきています。 もちろん、子どもを愛している親はいっぱいいます。でも、「愛している」ということと、信用し、信頼しているということとは同じではありません。 信用し、信頼しているのなら「ああしなさい」「こうしなさい」などと指示命令だけで子どもを管理しようなどとはしないのです。 それは大人同士でも同じです。そして、子どもたちはそんな大人達にあこがれを感じなくなってしまっています。 だから、大人になりたくない子どもが増えてしまっているのです。 そして、そのような社会では「言葉では伝えることが出来ないこと」が伝わらないのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|