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Naoko@ Re[6]:「人は、自分が大嫌いな人と似ているのです」(09/16) 森の声さんへ 先生、回答をありがとうござ…

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森の声

全5143件 (5143件中 1-10件目)

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2019.09.20
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カテゴリ:カテゴリ未分類
感覚の働きは、自と他、頭と心とからだ、心の中と外、からだの中と外を「つなぐもの」として働いています。

自分というものを統合し、自分を「一人の自立した人間」として機能するように支えてくれているのが感覚の働きなんです。


そして、特別な障害を持っていない限り、「五感」という「外部の刺激を感じ取る感覚器官」は誰でも生まれつき備わっていますが、その使い方は生まれた後、様々な体験を通して学ぶようになっています。

さらには、五感以外にも頭や、心や、からだといったものも、それ自体で「感じる働き」を持っています。

もっと言えば、人を構成している細胞の一つ一つが「感じる働き」を持っているのです。「命の働き」はそのまま「感じる働き」だからです。

ですから「命を持っているもの」は全て「感じる働き」を持っています。これは例外がありません。生物は皆「感覚の働き」によって命と、その機能を維持しているのです。

ただ、これらの感覚は「五感」のように特定の感覚器官に依存していないので、その働きや存在が分かりにくいだけです。

五感の働きも含めて、全ての感覚の働きの初期状態は、作られたばかりでまだ何も学習していないAI(人工知能)のような状態です。

ものすごい可能性は秘めているのですが、最初はまだ何も出来ない状態です。
その可能性が開くこともありますが、上手に学習することが出来なければ、ただのガラクタになったり、危険なロボットになったりします。

人間でも感覚を育てることが出来ないまま育った人は、自己を統合することも、他者とつながることも出来ず、頭も、心も、からだも不安定な状態になります。そしてそれは「理由のない漠然とした不安」として表れます。

でも、自分でもどうしていいのか分かりません。
一生懸命に勉強しても、努力しても、それが感覚の働きを育てることにつながらなければ、本質的な問題の解決にはつながりません。

ちなみに、麻薬やアルコールがなぜ人間にとって良くない存在なのかというと、それらが人間の正常な感覚の働きを狂わせてしまうからです。

頭の働きも、心の働きも、からだの働きも狂わせます。
更に問題なのは、軽度なうちはその本人がその狂った状態に気付かず、「自分は正常だ」と思い込んでいることです。

酔っ払ってフラフラしていても「オレは酔っていない」と言い張る人は普通にいますが、顔がちょっと赤くなっている程度でもお酒はその人の感覚を大きく狂わせているのです。それはそういう検査をすればすぐに分かることです。

でも、本人にはその狂いが分かりません。

麻薬をやっている人も、初期のうちは自分は正常だと思い込んでいます。実際、麻薬をやりながらでもちゃんと社会生活は営めているのですから。

でも、周囲はなんとなく違和感を感じています。
そして、その狂いを自分でも感じるようになってからでは手遅れです。

ちなみにゲームにもその感覚の働きを狂わせる働きがあります。ただ、幼児期に自然の中で、仲間といっぱい遊んで育ったような子は、ゲームをやって一時的には感覚が狂っても、しばらくするとまた元に戻ります。

それは、お酒を飲んで一時的に感覚が狂っても、アルコールが消えれば感覚が元に戻るのと同じです。

(ただし、あるレベルを超えて日常的にやり続けると、アル中状態になってしまい、そう簡単に感覚が元に戻らなくなります。生活の中に自分の居場所がない子がそのような状態になりやすいです。)

でも、感覚の働き全般が育っている幼児期にゲーム漬けになってしまったような子の場合は、簡単にアル中と同じ状態になり、ゲームをやっていない時でも感覚の働きが正常に働かなくなります。そして、頭や、心や、からだの働きに非常に大きなダメージが残ります。

ちなみにここで言う「頭の働き」とは学校の成績のことではありませんからね。もっと総合的な「人間としての頭の働き」のことです。東大を卒業しても犯罪を犯したり、平気で人の迷惑になるようなことをする人は、その「頭の働き」が狂っているのです。

でも、学校の成績には直接関係は及ぼさないので、お母さん達はそれほど問題を感じないのでしょう。

だから、子育てでも、教育でも、子どもの感覚を育てることが、親にとっても教師にとっても非常に大切な仕事になるのですが、でも、その自覚がある大人は多くありません。

また、自覚があったとしても、その方法を知っている人は多くありません。

「感覚を育てる」というと、普通の人は、頭は頭で、目は目で、耳は耳で、心は心で、からだはからだで別々に育てようとします。それは欧米的な発想です。

でももしそれが成功したとしても、それらが統合されないことには効率的に働かないのです。

人間の感覚は全てがつながり合って、支え合って働くように出来ているからです。


それは、車を作る時に、最高のエンジンと、最高のタイヤと、最高のパーツと、最高の車体を寄せ集めても、それだけでは最高の車は作れないのと同じです。

それらを統合する設計者が必要なんです。

その設計者は、感覚を個別に育てていては育たないのです。感覚が統合された状態の中で感覚育てをするから、感覚を統合する能力が育つのです。

すると最高のエンジンを積んだだけの車よりも、総合力において素晴らしい能力を持った車を作ることが出来るのです。

人生で役に立つのはその「総合力」なんです。






Last updated  2019.09.20 10:35:17
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2019.09.19
カテゴリ:カテゴリ未分類
鉛筆でも筆でもなんでもいいですから、長くまっすぐな一本の線を引いてみて下さい。

水平なまっすぐ、垂直なまっすぐ、斜めのまっすぐ。

やってみれば分かりますが、ものすごく難しいものです。

きれいな円や螺旋を描くのも難しいです。

このような行為を支えているのが「感覚の働き」です。

ですから、感覚の働きに歪みを生じている人はこのような行為が苦手です。

出来ないか、出来ても非常に疲れます。

子どもにやらせてみれば子どもの感覚状態が見えてきます。

線を描くという行為は日常的にあまりないかも知れませんが、まっすぐに立つことが出来るのも、歩くことが出来るのも、話すことが出来るのも、考えることが出来るのも、線を描く時と同じ「感覚の働き」のおかげです。

ですから、感覚の働きに歪みを生じている人は、楽な姿勢でまっすぐに立ったり、歩いたりすることが苦手です。

そのため、特別なことをしなくてもすぐに疲れます。

「あなたの考えを教えて下さい」と言われても、考えをまとめることが出来ません。自分の内側を感じる力が弱いからです。

疲れやすい人は「自分は体力がないからだ」と考えることが多いかも知れませんが、実際には「感覚の歪み」が疲れやすさの原因であることが多いのです。

また、感覚が疲れている人は「ゆっくり継続的に動く」ということが苦手です。なぜなら、感覚を働かせないことにはゆっくり動くことが出来ないからです。

太極拳はゆっくり動きます。
「あんな練習をしても武術として役に立つわけがない」と考える人も多いですが、ゆっくりと動きながら練習を繰り返すことで感覚やからだ全体が統合されるのです。

西洋で生まれたスポーツはスピードとパワーで戦いますが、太極拳は感覚で戦うのです。(もちろん感覚だけではありませんけど・・・)だから練習方法が全く違うのです。

また、感覚が疲れている人は待つのも苦手です。
待てないのです。待たされるとイライラするのです。

そして今、ゆっくりや、待つことが苦手な子どもや、大人や、お母さん達が増えて来ています。というか、そういう子や、大人や、お母さんが普通になってきてしまっています。

そのような状態の人の感覚は過度に過敏になるか鈍感になっています。

匂いや、音や、感触や、味や、視覚に過敏になっていたり、逆に鈍感になっていたりします。

そのため、正常に周囲の状態や自分の状態を感じ取ることが出来ず、周囲の状態や自分自身と適切につながることが出来ないのです。

それが不安や自己肯定感の低さの原因になったりします。

学習も困難になります。

先生の話や思考に集中できないからです。

「ゆっくり動き遊び」をすると、発達障害の子はゆっくり動けません。同じように、ゲームでばかり遊んでいる子もゆっくり動けません。

感覚の働きが歪んでしまっているからです。

幼い時からゲームでばかり遊んでいる子は待つことも、人の話に集中することも、自分の考えをまとめることも苦手です。

ゲームには、子どもの感覚の働きの統合性を破壊する働きがあるからです。部分的に過敏にさせ、部分的に鈍感にさせるのです。

そのため精神的に不安定になります。

ただ、知的な能力には影響を与えません。だから、問題にならないのです。

ゲームはストレス発散にも使われますが、そもそも感覚が安定している子はストレス自体がそんなに溜まらないのです。

シュタイナー教育では「フォルメン線描」とか「オイリュトミー」という活動を大切にしていますが、これらの活動には子どもの感覚を統合する働きがあります。

適当な本が見つからなかったので、どんなものかはネットで調べてみて下さい。






Last updated  2019.09.19 06:57:50
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2019.09.18
カテゴリ:カテゴリ未分類
キリスト教ではこの世界の全ては神様が「言葉」で創ったことになっています。

それはつまり、この世界に「神様の不思議」は存在していても、「自然の不思議」は存在していないということです。

「自然の中に神様の不思議を感じる」というようなことはあるでしょうが、「自然の働きそのものの不思議を感じる」という感覚はなかったのではないかと思います。

つまり、種から芽が出て花が咲く現象に「神様の働きの不思議」を感じることはあっても、「命の働きの不思議」を感じることはなかったのではないかと言うことです。

そして、神様の働きとして理解出来ないことは悪魔の仕業として理解されました。
神の子として創られた人間に災いを成すものはすべて悪魔の仕業か、神を裏切った人間の罪によるもの(自業自得)として理解されたのです。

「死」も「お産の苦しみ」も、人間の罪として理解されていました。

もともとキリスト教文化は、自然や命の現実をありのままの姿で見ようとしない非科学的な文化だったのです。

キリスト教の前身のユダヤ教は民族をまとめるための宗教でしたから、客観的な自然や命の現実よりも、「自分たちは神に創られ、神に選ばれた特別な存在なんだ」という主観的な思想の方が大事だったのです。

そのユダヤ教の流れの中に生まれたイエス・キリストは、そのユダヤ人限定の宗教を、「ユダヤ人だけでなく全ての人がその救いの対象になるんだよ」と説きました。だから世界宗教になることが出来たのです。

でも、その対象はあくまでも「人間」であって、人間以外の生き物や自然はその対象には含まれていませんでした。

また、「神様を理解したい」という思いが強かったので、様々な自然現象を観察することで、神様の働きを理解しようとしました。

神様がこの世界を創ったのなら、この世界をよく観察することで神様の不思議を理解し、神様に近づけるのではないかと考えたのです。

ニュートンやガリレオは科学者として有名ですが、同時に神学者でもあったのです。

でも、皮肉にもその「神様のことをよく知りたい」という想いが、神様なんかいないという現実を明らかにしてしまったのです。

研究が進むにつれて、この世界を支えているのは、「神様」ではなく単なる「物理学の法則」だということを発見してしまったのです。

そして、今度は「科学」が「神様」になりました。
その科学で大切にされているのも人間ではありません。科学が、「人間もまた科学的な現象の結果に過ぎない」ということを明らかにしてしまったからです。

科学の目的は科学の可能性を探究することだけです。そこには神様も、人間も、自然も存在していません。

西洋は、「人間や、命や、自然は、それだけで何にも代えがたい素晴らしい存在なんだ」という価値観が生まれないまま科学中心時代に入ってしまったのです。

ただ、1960年代の後半ぐらいから神様を失ってしまったその後を埋めるように、一部の若者達の間に、「人間や、命や、自然は、それだけで何にも代えがたい素晴らしい存在なんだ」「自分は自分だ」という価値観や考え方が広がり始めました。

そのきっかけになったのが東洋の思想です。

そして、外側の世界に神様を探すのではなく、自分の内側を探り、命の神秘、宇宙の神秘に近づこうと瞑想をする若者も増えました。

インドに行く若者も増えました。
去年インド最北端の都市ラダックに行きましたが、ラダックのチベット仏教の寺院でも、瞑想をしている欧米の若者を何人も見かけました。

世界を創った神様と違って、「仏」は外の世界にはいません。「仏」と会いたいのなら、自分の内側を見つめるしかないのです。自分の内側を通して宇宙と出会うのです。それが仏教です。

でも、その東洋で生まれた「自分の内側を見つめるだけの宗教」は、「安心」は与えてくれましたが、「この世界の仕組み」は明らかにしてくれませんでした。科学も生まれませんでした。豊かさももたらしてくれませんでした。

で結局、西洋文明の強さと豊かさに負けてしまいました。

その結果、東洋では、「人間や、命や、自然は、それだけで何にも代えがたい素晴らしい存在なんだ」とか、「自分を見つめる」という思想を捨ててしまう人たちが増えて来ました。

そして、東洋的な価値観を捨てて、追いつけ追い越せと頑張ってようやく、豊かさにおいて西洋文明に追いつきました。

その先頭に立っていたのが日本です。

でも今、多くの日本人が目標を失い、空っぽになってしまっている自分に気付き始めています。その「空っぽ」は「理由のない不安」として働き、人々を競争に追い立てたり、考え方を保守的にしています。

麻薬やゲームのように「自分を忘れさせてくれるもの」に夢中になる人も増えて来ました。

その状態から抜け出すためには、もう一度「人間や、命や、自然は、それだけで何にも代えがたい素晴らしい存在なんだ」ということに気付く必要があるのです。

そして、自分を見つめ、自然の不思議、命の不思議、「自分」という存在の不思議を感じる感性を取り戻すことです。

西洋的な価値観と東洋的な価値観が融合しないことには、ここから先の未来はないのです。

ちなみに、多血質や胆汁質の人は、「神様」のような「外側にあるもの」に価値基準を探そうとする傾向があります。

それに対して、粘液質や憂鬱質の人は、「仏」のような「内側にあるもの」に価値基準を探そうとする傾向があります。






Last updated  2019.09.19 05:45:06
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2019.09.17
カテゴリ:カテゴリ未分類
現代人は「感覚」とか「からだ」という視点が分からなくなってしまったため、「心」についても分からなくなりました。

そのため、心に何かトラブルがあると、カウンセリングのような形で、相手の心と関わることで何とかしようとしています。

コーチングと呼ばれる方法も基本的には同じです。

確かに自分以外の誰かに話を聞いてもらったり、人に話をすることで心の交通整理が出来ます。自分の心に対して俯瞰的な視点を持つことも出来ます。そのことで、こんがらがっていた問題がほぐれることもあります。迷路の出口が見つかることもあります。

ですから、意味がないことではないのですが、これらの方法で解決できるのは問題意識を持っている人や、自分の悩みを自覚している人の問題だけです。

それはつまり、これらの方法では「心の中の問題」は扱えても、「心そのものの問題」は扱えないと言うことです。

例えば、気質が違えば心とからだの状態が違います。この違いは本人達も自覚していません。問題意識も持っていないし、また問題でもありません。
そのため、その人の心の苦しみがその人の気質に起因している場合、カウンセリングをしてもコーチングをしても無駄です。

それはまた、「コマの回し方が分からないんです」という人の悩みは解決できても、「コマが嫌いなんです」という人の問題は解決できないし、また解決する必要もないということです。

そもそも、「コマ」が嫌いな人はコマが回せないからと言って悩んだりはしないものです。それが悩みになるのは周囲からコマを回すように強制された時です。

でも本人は、コマを回したいのではなく、強制されたくないだけなので、コマの回し方についてカウンセリングやコーチングを受けても意味がないのです。というかそういうものを受けたいとも思いません。

また、子育てや教育の場でも、悩みを相談してきた子の問題を解決する場合には、カウンセリングやコーチングという方法は有効ですが、「子どもの心そのものをどう育てたらいいのか」という問題に対しては無力です。

それに対して、感覚やからだという視点を持てば、相手がまだ言葉を話すことが出来ない赤ちゃんや幼い子どもであっても、「心をどのように育てたらいいのかと」いうことが分かります。

発達障害と呼ばれる「ちょっと変わった子」との関わり方も分かります。

鬱病や統合失調症のような状態で苦しんでいる人との関わり方も分かります。

ただし、「治せる」ということではありませんからね。そもそも「心の問題」は治す必要がないことも多いです。実際、周囲が理解してあげるだけで問題が問題ではなくなってしまうことも多いのです。


でも、心理学や、心理学に基づく方法では、このような問題で苦しんでいる人を扱うことが出来ません。そのため、すぐに「薬を使って、症状を落ち着かせる」という方法を使おうとします。

心理学は「心の問題」を「心の中の問題」として扱おうとします。でも慢性的な「心の問題」の本質は、心の外側にある「感覚やからだの問題」なので、心理学では扱いようがないのです。
「心」は「感覚やからだの状態を映し出すモニター」として働いているだけだからです。

私の周囲にはゲシュタルト心理学にはまっている人が多いですが、ゲシュタルト心理学も部分的にですが、感覚やからだという視点も取り込んでいます。
そうしないと説明できないことがあるからです。

でも、ゲシュタルト心理学が「心理学」であるかぎり、本当の全体は見えません。
心理学では、人間の世界を超えた問題は扱うことは出来ないからです。
「人間の中の問題」は扱えても、「人間という存在の問題」は扱えないのです。

発達障害という現象を扱う場合も、「人間の中の問題」として扱われることが多いです。
だから「みんなと一緒」が出来ない子は、「障害児」として扱われることになってしまうのです。でも、発達障害を「人間という存在そのものの問題」として考えた時には、それは単なる障害ではなく、「警告」や「可能性」として扱うことも可能になります。

それと、発達障害の子は独自の感覚を持っています。感覚や思考能力が不良品のように壊れているのではなく、ちゃんと機能している独自の感覚や思考能力を持っているのです。

ですから、人間社会の「普通」を「正常」として基準にしたら「障害」になってしまうのですが、でも、その感覚や思考能力の個性を受け入れてしまえば、障害ではなくなってしまうのです。

それはまた、人間が自分自身を相対的に理解するきっかけにもなるでしょう。
それは、外国に行って始めて、日本のことを客観的に理解出来るようになるのと同じです。






Last updated  2019.09.17 17:29:31
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2019.09.16
カテゴリ:カテゴリ未分類
当然のことながら、実際に何かを見るためには眼が必要です。何かを聞くためには耳が必要です。

つまり、音や光といった「外側にあるものに感応する受容体」(感じるもの)を持っているから、それらを感じることが出来るわけです。

実際に目の前に何かが存在していたとしても、それを感じる受容体を持っていなければ、人はその存在に気付かないのです。

この受容体は眼や耳などのように生まれつきのものでなくても、様々な経験を通して、神経回路がその刺激を感じやすいように構成されることもあります。

生まれつき持っている眼や耳がハード的な受容体だとすると、これは二次的に作られるソフト的な受容体になります。

私たちが言葉を理解したり、言葉から何かを感じることが出来るのも、このソフト的な受容体が、幼い頃からの言葉体験によって作られるからです。

ただそのため、このソフト的な受容体の特性はそれを形成する際の体験の質に依存しています。

日本語を体験しながら育てば、「日本語を理解し感じる能力」(受容体)が育ちます。
英語を体験しながら育てば、「英語を理解し感じる能力」(受容体)が育ちます。

そして、同じ日本語でも東北弁を体験しながら育った人と、関西弁を体験しながら育った人とでは、受容体の性質が異なるため言葉に対する感受性も異なります。

いずれにしても、人は、自分の心やからだの外部にあるものを、内部にある受容体と響かせることで外部の世界を認識しているのです。

それはつまり、「自分の内側に日本語があるから、外側にある日本語を理解出来る」ということでもあります。
逆に言えば、自分の内側に日本語がない人は、他の人が話す日本語を理解することが出来ないということでもあります。

またそれは、自分の中に「優しさ」がない人は、他の人の「優しさ」を感じることは出来ないということであり、自分の中に「美」がない人は、外の世界の「美」を感じることが出来ないということでもあります。

言葉で説明されることで言葉で理解することは可能ですが、受容体がないので感覚的にそれらを直接感じることは出来ないのです。そのためそのような人は観念的な優しさや美に囚われやすいです。

他の人の感情を感じる時にも同じことが起きています。

自分の中に怒りの感情がある人ほど他の人の怒りの感情にも敏感です。
そのため、他の人の怒りに敏感に反応して恐がる人は、自分よりも弱い相手には怒りをぶつけることも多いです。

よく、「私あの人嫌いなんだよね」という話を聞いていると、その「あの人」と、その話をしている当事者が似ていることを感じることがあります。

困ったことに、人は、自分が大嫌いな人と自分が似ている可能性が高いのです。
似ているからよく分かるのです。よく分かるから嫌いなんです。


「お母さんが大嫌いです」という人の話を聞いていると、その人とお母さんが似ていることを感じることも多いです。

だから「嫌いだ」と言って否定するだけでは問題が解決しないのです。逆に、自分の中にある「同じ所」をちゃんと受け入れ否定しないようにすると、お母さんへの怒りも消えるのです。

これは気質とも関係しています。

多血質の人は多血質特有の受容体を持っています。だから、多血的な出来事やものに対する感受性が高いのです。

家内は多血+胆汁的な気質が強いです。だからスポーツ番組を見ていて盛り上がっています。でも、根が多血なので、負けても怒ったりはしません。諦めも早いです。

それに対して、粘液+憂鬱の私には、スポーツを見て熱狂する人の気持ちが分かりません。
負けて悔しがったり、怒ったりする人の気持ちはさらに分かりません。

これは気質の違いに伴う受容体の違いの問題なので、どうしようもないのです。






Last updated  2019.09.16 08:25:29
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2019.09.15
カテゴリ:カテゴリ未分類
昨日は、

意識が心の中に向かいがちな憂鬱質の人でも、感覚の働きを大切に生活していると、不安や悩みに振り回されなくなるのです。

と書きましたが、だからといってそう簡単に感覚に意識を向けることが出来るようになるわけではありません。

感覚の働きを大切にするといっても、それまで感覚の働きを大切にしてこなかった人はそれがどういうことか分かりません。

そもそも、自分の感覚に気付くことすらないかも知れません。

人は、それまで見えていたのに見えなくなったり、それまで聞こえていたのに聞こえなくなれば気付きますが、最初から意識したことがないものに気付くことは出来ないのです。

そしてそれはその人の心の中の物語と関係しています。

人は誰でも、心の中に自分だけの物語を持っています。その物語は人類の歴史とも、自然とも、宇宙ともつながっていますが、幼い頃から見聞きし体験してきたことが、一人一人の物語に個性を与えています。

それは同じケヤキの木でも、大地から切り離された後は、ある木は家になり、ある木は食器になり、ある木はイスになり、というような個性です。

「ケヤキの木」という原初的な個性(それが気質です)は同じでも、今現在の状態は「どう扱われてきたか」ということに応じて、全く異なったものになるのです。

そしてその「どう」扱われてきたのか」ということが、その人の「一人の人間としての物語の状態」を決めています。

そして、その人の感覚は、その人の物語に沿って働くように最適化されます。

家になった木は「家としての物語」と「家としての感性」を持っています、イスになった木は「イスとしての物語」と「イスとしての感性」を持っています。

もちろん姿形は変わっても、素材としての「木としての感性」は変わっていません。でも、その感性は生まれつきのものなのであまり自覚されることはありません。

ただし、人間の場合はもっと話が複雑になります。
なぜなら、物理的には同じ環境で育った子、同じような状態で育った子でも、その環境との関わり合いの違いによって、子どもは異なった物語を持つようになってしまうからです。

同じように、大勢の人間に囲まれて育った子でも、みんなに肯定されながら育った子は人間に対して肯定的な物語を持つようになります。だから、人間を信じることも出来ます。

そして人間の肯定的な側面に対する感受性が高くなります。だから、良い人を見分ける能力も高いです。
「悪い人」がどのような人なのかはよく分かりませんが、そのような人の近くに行くと違和感を感じます。

逆に、周囲から否定されながら育った子は、人間に対して否定的な物語を生きるようになります。
そして人間の否定的な側面に対する感受性が高くなり、自分と同じような「人間に対して否定的な感性を持っている仲間」を見分ける能力が高くなります。

「良い人」がどのような人なのかはよく分かりませんが、そのような人の近くに行くと違和感を感じます。

で、結局両者とも「類は友を呼ぶ」という状態になります。

同じ物語を持っているもの同士が集まるのです。同じ物語を持っているもの同士は共通の感覚、価値観、物語を生きているので簡単につながれるからです。

スマホやゲームなどの機械でばかり遊んで育った人は、「自分の物語」の中に「機械の物語」も取り込まれているので、機械に対する感受性は高くなります。

でも、人との関わり合いによって「人間の物語」が育っていなければ、人間に対する感受性は低くなります。

でも、この物語は変えることも出来ます。

都会で生まれ育った人をいきなり自然の中に連れて行っても、自然を感じる能力は低いです。

でも、「自然の物語」に詳しい人に「自然の物語」を教えてもらい、自然との関わり合いを増やすことで、自分の物語の中に自然の物語も組み込まれるようになり、自然を感じる能力も育っていくのです。

この際大切なのは、「自然に対する知識」を学ぶのではなく、「自然を支えている物語」を学ぶということです。

「物語」には「自分という人間を支えている物語」を変える力がありますが、「知識」はただ溜め込まれるだけだからです。

「物語」とつながらない「知識」には人を変える力はないのです。


まただから、本をいっぱい読んでお勉強しただけでは人は変われないのです。






Last updated  2019.09.15 08:53:19
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2019.09.14
カテゴリ:カテゴリ未分類
現代人は非常に不安が強いですが、それは感覚に意識を向けなくなったことの表れでもあります。

感覚に意識を向けるということは、外側の世界に意識を向けるということです。それはつまり、外側の世界とつながるということでもあります。

それをしなくなったため、意識がすぐに心の中に向かい、心の中に閉じ込められてしまうようになってしまったのです。

だから憂鬱質でもないのに、憂鬱質的な状態が強くなってしまっている人が多いのです。

逆に言えば、意識が心の中に向かいがちな憂鬱質の人でも、感覚の働きを大切に生活していると、不安や悩みに振り回されなくなるのです。

昔の人は常に感覚に意識を向けて生活していました。感覚に意識を向けていないと生活できなかったからです。
ご飯を炊くのだって、現代人はボタンを押すだけですが、昔の人は薪を割り、カマドに火を熾し、匂いと、音と、勘を頼りに炊いていたのです。

感覚に意識を向けていないと、ご飯すら炊けなかったのです。
お掃除だって、お洗濯だって出来ませんでした。
仕事でも、便利な機械がないので、からだを使って仕事をしていました。そして、からだを使うためにはからだや、行為の対象に感覚を向ける必要がありました。

人が悩むのは何もしていない時です。そのため、悩みたい人は、手を止めます、足を止めます、からだを動かすことを止めます。

とにかく、手や足やからだを動かすことを止めないことには悩めないからです。

皆さんは体操をしたり、歌ったり、踊ったりしながら悩めますか。
やってみて下さい。多分出来ないと思います。
悩もうとするとからだの動きが止まってしまうはずです。

ですから、悩みから抜け出すためには、手を動かし、足を動かし、からだを動かし、感覚に意識を向ければいいのですが、そういう人に限って、「悩みから抜け出せない」と悩むばかりで、動こうとしないのです。
そのため、いつまで経っても苦しみから抜け出すことが出来ません。

簡単で便利な機械のおかげで現代人は、自分のからだや感覚を使わなくても生活できるようになりました。でも、そのせいで、現代人は心が自分の内側に向かいやすくなり、悩みや不安に囚われやすくなってしまったのです。

だから、アルコールや、麻薬や、向精神薬や、ギャンブルみたいのものに頼りたくなる人が増えて来ているのです。

大麻は昔から日本に自生している普通の草です。江戸時代までは法律で禁止されてもいませんでした。大麻の効果を知っている人もいました。それでも、それにはまって中毒になる人はいなかったようです。(少なくとも、大麻で中毒になった人の記録はないそうです)

ゲームも同じ働きをしています。

ゲームで遊んでいる時は、バーチャルな世界の中で擬似的にからだを動かすことが出来ます。すると、擬似的に感覚も働きます。だから、その時だけは悩みや苦しみを忘れることが出来るのです。

でも、現実の世界の中で実際にからだを動かしているわけではないので、その感覚の働きも実際のからだや現実の世界とは全くつながっていません。

ゲームの世界の中で起きていることは全部が「つもり」なんです。
「からだを動かしているつもり」、「感覚を働かせているつもり」、「ゾンビと戦っているつもり」、「冒険をしているつもり」です。

でも、頭の中はそのつもりでも、「つもり」では、自分と現実の世界をつないでいる「からだ」も「感覚」も育たないのです。

そのため、ゲームでばかり遊んでいる子は「自分が生きている世界とのつながり方」が分からないままになってしまうのです。そして、現実の世界での活動が面倒くさくなってしまいます。

また、意識が外の世界にではなく、心の中に向かいやすくなり、悩みや苦しみを抱えやすい心とからだの状態になってしまいます。

このような状態のまま大人になってしまった人は、子育てをしていても子どもの状態を感じることが出来ません。何かあるとすぐに、外の世界への感覚を閉ざして、意識が心の中に閉じこもってしまいます。

9才、10才頃まで自然の中で、仲間と思いっきり遊んで育った子は、感覚もからだも十分に育っています。
現実の世界の中に自分の居場所もちゃんとあります。だから、悩みや苦しみに囚われにくくなります。
そのような子は、ゲームで遊んでも、ゲームに取り込まれる可能性は低いと思います。


でも、幼い頃から、自然の中で仲間と思いっきり遊ぶこともなく、一人でゲーム(簡単で便利な機械)でばかり遊んで育った子は、挫折しやすく、ガマンも出来ず、苦しみや悩みに囚われやすくなってしまうと思います。

そのような子は、感覚の働きが鈍いです。
感覚が働かないので造形も表現も出来ません。考えることも工夫することも苦手です。

そして、何かあるとすぐに、悩みや苦しみの迷路に入り込んでしまいます。
悩みや苦しみが脳の中に創り出したバーチャルな世界に閉じ込められてしまうのです。

本来は、感覚の働きがその「脳内バーチャル」の世界から、現実の外の世界へ心を連れ出してくれるのですが、その感覚の働きがちゃんと育っていない子はその世界から抜け出せないのです。

大人でもそういう状態の人がいっぱいいます。






Last updated  2019.09.15 08:45:48
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2019.09.13
カテゴリ:カテゴリ未分類
人というより全ての生き物は感覚の働きで、自分以外の他者や、周囲の環境や、自然とつながっています。

感覚の働きがなければ、自分自身ともつながることが出来ません。

そしてその感覚の働きは、体験によって育つように出来ています。

例えば視覚ですが、外部の世界の映像が眼球を通して網膜に映し出され、そのデータが脳に送られるという所までは、特別に機能的な異常がない限り誰でも生まれつき持っている能力です。

これは体験によって生まれた能力ではなく、DNAの働きによって生まれた能力だからです。

でも、その視覚データがどのように処理され、そのデータの中に何を見て、何を感じるのかを決めているのはDNAではなく、体験です。
ですから、体験とつながっていないものは網膜に写っていても見えないのです。

以前、子どもたちに小さな公園が写っている1枚の写真を見せて「何が見える」と聞いたことがあります。

公園の写真ですから、子どもたちは、ブランコ、滑り台と勢いよく答えてくれました。でも、写真に写っている遊具の名前が一通り出たら、そこで発言は止まってしまいました。

公園の上に広がっている青い空や、白い雲、公園の木々、道路の脇の自動車、そういうものは見えないのです。

それで、「それだけじゃないでしょ」と更に聞いたら、ようやくそういうものに気付く子が出てきました。

小学校に呼ばれて音のワークをした時も、体育館に集まった子どもたちに「何の音が聞こえる」と聞いたら、まず最初に足音や、話し声や、ピアノの音や、自動車の音といった、人工的な音ばかりが出てきました。

風の音も聞こえていたのですが、それに気付くまでにはかなり時間がかかりました。

でも、同じ質問を日常的に自然の中で自然と共に暮らしている子どもたちにしたら、全く違う答えが返ってくると思います。

公園の上を飛んでいる鳥や、緑豊かな木や、道の隅にいる犬には気付いても、ブランコや滑り台には気付かないと思います。遊んだことも、見たこともないものだからです。

これは私の推測ではなく、実際に学者達が確認した事実でもあります。

人間は、目で見て、耳で聞いているのではなく、体験で見て、体験で聞いているのです。

それは言葉を聞くのと同じ仕組みです。全く知らない外国語は単なる「音」としてしか聞こえませんが、日本語なら「音」ではなく言葉として聞こえてきます。それと同時に、言葉の「音」としての側面は聞こえなくなってしまいます。

「木」という言葉はみんな知っていますが、木が身近なところにあり、木登りしたり、木の実を取って遊んでいる子と、木との触れ合いがない生活をしている子とでは、「木」という言葉に対する理解が全く違います。

「木」という「文字」も、「き」という「音」も、「木についての説明」も知っていても、木との触れ合いがない状態で育った子は、「木についての情報」を知っているだけで、「木」そのものは知らないのです。

そのため、「木」についての話や、「木」が出てくる物語を聞いても本質的なところで理解することが出来ません。

言葉が「言葉」として正しく機能するためには、その言葉とつながった体験が必要になるのです。

そして、その体験を支えているのが感覚の働きなんです。
子どもたちに何かを体験させようとして何かをやらせても、感覚を働かせながらやった子はちゃんと体験が出来ますが、マニュアル的に作業しただけの子は体験が出来ないのです。

例えば、包丁を使う体験をさせる時も、包丁や、自分が切るものや、手のひらの感覚や、からだの感覚を感じながら切った子は、ちゃんと「包丁」を体験できますが、ただ動作を真似しただけの子は、「包丁」の体験が出来ないのです。

それはロボットがやっている「作業」と同じものだからです。ロボットは体験が出来ないのです。だから成長しないのです。
ただし、同じロボットでも、AIはその体験が出来るように作られています。だからAIは成長するのです。

これは人間も同じで、感覚の使い方を知らない子は体験も出来ないし、学ぶことで成長することも出来ないのです。学んだ知識を吸収する能力がないからです。
そのような子は、どんなに学んでもただ知識が増えるだけなんです。


その違いが現れ始めるのが中学生頃です。小学校の間の勉強は覚えるだけでも何とかなりますが、中学生ぐらいになると考える能力が育ってない子はついて行くことが困難になってしまうのです。

当然、勉強を楽しむことも出来ません。

だからといって、東大に入るような子がみんな考える能力に優れているということではありません。受験やお勉強に特化した思考法はパターンが決まっているので、その思考法を単なる技術として覚えてしまえば何とかなってしまうからです。

もっといえば、「自由に考える能力」は受験やお勉強には必要がないのです。かえって邪魔になってしまうこともあります。実際、「自由に考える能力」が高いが故に、学校の成績は悪い子もいます。

でも、その「自由に考える能力」がないと、自分の人生を自分のものとして生き生きと生きることが出来ないのです


そして、その「自由に考える能力」が育つためには、9才頃までに感覚をいっぱい働かせながら、色々な体験をする必要があるのです。

思考力と感覚の働きは一見関係がなさそうに見えますが、実際には感覚が働かないと思考も出来ないのです。「考える」ということは「感じる」ということの延長でしか発生しないからです。

そのため、感覚の働きが鈍くなっている時は思考力も低下しているのです。思い当たることがあるのではありませんか。

私もこの文章を感じながら書いています。

お勉強で必要な思考力はお勉強だけでも育てることが出来ますが、お勉強で育てた思考力は、お勉強という場でしか使えないのです。社会に出たら使えないのです。人間関係の中でも、自分を成長させるためにも使えません。

だからこそ、子ども時代、特に幼児期の感覚育てが非常に重要になるのです。






Last updated  2019.09.13 09:16:39
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2019.09.12
カテゴリ:カテゴリ未分類
「気質」は一休みして、しばらく「感覚」の話を書きます。

現代人は感じることが苦手です。

すぐ、機械や、道具や、知識に頼ってしまいます。また、感じるのではなく頭で判断しようとします。

でも、そのことを指摘しても、そもそも「感じる」というのがどういうことなのか分からない人が多いので、話が伝わりません。

便利な機械や、道具や、知識がない時代には、人々は感じる働きを使って、からだを動かし、仕事をし、獲物を得、敵や危険から身を守っていました。

今でも、人間以外の生き物たちはみんな「感じる働き」に頼って生きています。人間はお金があれば食べ物を得ることが出来ますが、動物たちは、自分の食べるものは自分のからだを使って手に入れなければなりません。そして、感覚の働きがそのからだの動きを導いているのです。
そのため、感覚の働きが鈍くなれば、生きること自体が困難になってしまうのです。

これは例外がありません。

そして、その感じる働きが、動物たちのからだを統合しているのです。耳を澄まして何かを聴こうとしている時、からだ全体の働きがその目的のために統合されるのです。

指の先から呼吸までが、何かを聴くために統合されるのです。
何かを聴こうとしている時に働くのは聴覚だけではないのです。無意識的に五感の全てが、意識と、心と、からだの全てが動員されているのです。

でもいまでは「耳を澄ます」ということ自体が少なくなりました。聞こえにくければボリュームを上げればいいし、そもそも耳を澄まさなければならないような状況もあまりありません。

現代社会では大部分の情報は映像や文字でやってきます。獣が襲ってくることもありません。風の音に耳を澄ますことも、鳥の声に耳を澄ますことも、花の開く音に耳を澄ますこともありません。

風や、鳥や、花や、自然とのつながりが切れてしまっているからです。

詩人、谷川俊太郎が書いた詩に「みみをすます」という詩がありますが、その詩は

   みみをすます
   きのうの
   あまだれに
   みみをすます


という言葉から始まります。

今現在聞こえている「あまだれ」ではないですよ、「きのうのあまだれ」です。
人は「きのうのあまだれ」にすら耳を澄ますことが出来るのです。

また、詩人、長田弘が書いた絵本(絵・荒井良二)「森の絵本」には

   どこかで よぶ声が しました
   でも 見まわしても だれもいません
   すると また よぶ声が しました
   こんどは ずっと 近く です
   でも やっぱり だれもいません
   木のうえに ひろがる 青い空
   風がはこんでくる 日の光


という言葉で始まります。

森の中に入ると声が聞こえてくるのです。
その声は「きみの大事なものを忘れてはいけないよ」と、声にならない声で語りかけてきます。

それは耳で聞く声ではなく、心で聴く声です。

人は、耳を澄ましていると、心に響いてくる何かを音として、声として聴くことが出来るのです。

「耳を澄ます」ということは、「心を澄ます」ということでもあるからです。

ですから、耳を澄ましていると、海でも、山でも、森でも、単なる音以上の何かを聴くことが出来ます。

私は山で聴く「沈黙の音」が好きです。沈黙の音には世界中の人の声や音が含まれているからです。

ちなみに、耳という感覚器官で聞くのが「聞く」です。心に響いてくる何かを心で聴くのが「聴く」です。

葉っぱがヒラヒラ落ちてくる音は耳では聞くことが出来ませんが、心では聴くことが出来ます。

雲がムクムクしている音は耳では聞くことが出来ませんが、心では聴くことが出来ます。

子どもの笑顔が発している音も、子どもの心が発している音も聴くことも出来ます。

でも、現代社会では「聞く」は大事にされていますが、「聴く」は大事にされていません。というか聴く能力自体がものすごく低下しています。

人々の意識が「物」にばかり向かうようになってしまったからです。
また、自と他、人間と自然、心とからだのつながりが不安定になってしまっていることも影響しているでしょう。

以下は私が大好きな本です。

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Last updated  2019.09.12 08:26:57
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2019.09.11
カテゴリ:カテゴリ未分類
西洋では昔から、物事を分析し、分析したものをさらに分析し、それらの結果を集めて全体を理解しようとしてきました。

その結果生まれたのが西洋哲学や、科学や、神学と呼ばれるものです。
音楽も音を分析し、再統合することで作られてきました。

交響曲と呼ばれるものはその最たるものです。
一つの曲を演奏するのに、あんなにも多くの楽器に役割分担をさせているのですから。

そしてだから、西洋では「人工的な美」を創り上げる能力が非常に高いのです。

ただ、この方法では決して扱うことが出来ないものもあります。

それは、その分析を行っている主体としての人間と、その人間が属している命の世界や自然です。

なぜなら、どんなに頑張っても自分で自分を客観的に分析することは出来ないからです。
だから、デカルトは「我思う故に我あり」などという中途半端なところで思考停止してしまったのです。
まただから、いっぱい気質の勉強をしても自分の気質だけが分からないのです。

人間は人間の客観的理性で分析可能なものしか扱えないのです。でも、人間はそれが人間の全て、世界の全て、自然の全てだと思い込んでしまっています。そして、その勘違いが人類を間違った方法に進めています。

科学や、医学や、文明が進歩すればするほど、人間が人間でいることが困難な状態になって来ています。

そう感じることはありませんか。

冷静に考えたら、こんなにも科学や、医学や、文明が進歩したのだから、人間はもっと豊かに、幸せに、生き生きと生きることが出来るようになってもいいはずなのに、実際にはその逆の現象が起きています。

私は去年、インド最北端の標高3500mの高地にあるラダックという町に行ってきましたが、そこではまさに貧しいけど幸せに暮らしていた人々が、生活の西洋化と共にあっという間に、人と人のつながりが失われ、お金がないと生きることが出来ない貧しいだけの社会になってしまいました。

学校も、子どもを苦しめる場になっています。
「学校が大好き」と言う子どもにその理由を聞いても「友達がいるから」と答えます。勉強や学校そのものが楽しいからではありません。

現代の学校は、目の前にいる子どもと向き合うことなく、子ども丸ごとを受け入れることもなく、「頭で分析した観念的な子ども」を相手に、大人が教え込みたいことを、大人が作ったスケジュールに合わせて覚えさせています。

で、勉強が出来ないと生徒や親のせいにされます。

勉強を教えるのが先生の役割なのですから、勉強が出来ない子がいるならそれは先生の能力不足や学校というシステムの問題なのに、なぜかそれを生徒個人のせいにするのです。
そしてそれが許されているのです。

そして、親もまた先生と同じように勉強が出来ないのは勉強しない我が子が悪いと思い込んでいます。

でも、子どもの心とからだは、自分の成長に必要なことしか出来ないように出来ているので、成長に害になるようなことは叱られても出来ないのです。

なぜなら、自我が未成熟な状態の子どもは、本能的な命の働きに導かれて考え、感じ、行動しているからです。

そのため、「もうやりません」と約束させてもまたやってしまうのです。
でも、その責任は子どもにはありません。子どもは自分でも自分をコントロールできないのですから。
子どもに出来ないことを子どもに求める大人の方が悪いのです。

それは子どもを分析するのではなく、ありのままの状態を素直に観察していれば簡単に分かることです。

今私たちに必要なのは「分析」ではなく「観察」なんです。ありのままを観察するのです。

すると、自分の中にそれに響くものがあることに気付きます。

花を見て、花の名前が言えても、色や形や種類を分析しても、命にとっての意味はありません。
大事なのは、花を見て何かを感じることなんです。花と共鳴している自分を感じるのです。

青い空を見て、青い空と共鳴している自分を感じるのです。

子どもを見て、子どもと共鳴している自分を感じるのです。
他者の中に自分と共通するもの、共鳴するものを感じるのです。

その感覚が育ってくると、分析するのではなく丸ごと受け入れることが出来るようになるのです。






Last updated  2019.09.11 09:31:57
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