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森の声@ Re[3]:「耳の働きを支える」(07/16) はるけんさんへ >早く納得したくて、一…

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森の声

全5083件 (5083件中 1-10件目)

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カテゴリ未分類

2019.07.22
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カテゴリ:カテゴリ未分類
今朝MSNのニュースを見ていたら、以下のようなタイトルの記事がありました。

「ゲームをする子は集中力が高い 禁止ではなく時間制限が重要」

で、
 加えて2017年に朝日小学生新聞が行った調査では、「ゲームOK」の家の子供の方が集中力が高く、勉強と遊びの切り替えも早いという結果になっている。特に、親と一緒にゲームをする子は、成績のいい子が多いという結果は目を引く。

こういうことが書かれており、最後に

「ゲーム禁止」はもはや“過去の教育方針”とさえいえる状況になっている。

と締めくくっています。

この記事から読み取れるのは、「勉強や成績に影響がなければ問題ない」「成績がよいなら大歓迎」的な感覚です。

つまり、「成績」のことしか関心がないのです。

子どもの「人間としての成長」や「なんのために学ぶのか」「教育はなんのために存在しているのか」という発想が全く消えてしまっているのです。

そして、多くのお母さん達の意識もこの記事を書いた人と同じです。
小学生のお母さんからの相談の大部分は、「宿題をやらない」「勉強をしない」「忘れ物が多い」「ゲームを止めない」「言うことを聞かない」などと言ったようなことばかりです。

「ゲームを止めない」というのも、勉強をしないから問題になっているだけです。

逆に言うと、ちゃんと勉強をして、成績も良くて、忘れ物もしなければ、他の時間はゲームばかりやっていてもなんの問題も感じないということです。

みんな「どう学校の期待通りに子どもを育てるのか」ということにしか関心がないのです。

「学校という価値観」の中だけで世界が閉じてしまっているのです。

でも子どもはやがて学校を卒業していきます。
「学校という価値観」が通用しない世界に出て行き、そこで生きなければなりません。

これは例外がありません。

だから、それまでに「学校の外の世界で生きていくための能力」を身につけなければならないのですが、学校の教育目標自体が学校内部だけで完結してしまっているので、「学校で学んだこと」の大部分が学校の外の世界では役に立たないのです。

社会に出て役に立つのは、「授業で学んだこと」ではなく、「休み時間に子どもたち同士で遊んだ体験」ぐらいなものです。
実際、多くの子どもたちが、友達と遊べる休み時間のために学校に行っています。

勉強は、やらないと親や先生に叱られるからやっているだけです。

どう考えたってこれって変でしょ。でも、それを「変」だとは感じない人が大部分になってしまっているのです。

本来は、学校は子どもが「社会で生きていくための能力」「自分の人生を自分のものとして生きる能力」を育てる場であるはずです。

親や家庭の役割は、「子どもを学校に都合のよい子」に育てることではなく、「生きるって楽しい」という感情や、「他の人とつながる能力」や「精神的、経済的に自立して生きて行く能力」を育てることです。

でも実際には、学校では社会で生きて行くこととは無関係なことばかり教え、成績で競争させることで「子どもと子どものつながり」を阻害し、競争意識ばかりを煽り立て、評価を気にする意識を植え付け、「言われたことだけを覚え、言われたことだけを考え、言われた通りに行動する訓練」ばかりをしています。

家庭でも、学校が求めてくることばかりを子どもに押しつけ、学校の手先のような状態になってしまっています。

そして、社会で生きていくときに必要になる、「自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意思と責任と判断で行動する能力」は育てるどころか、むしろ「邪魔なもの」として否定されています。


この選挙期間中、若者達に「選挙に行こう」と呼びかけているポスターや記事を多く見かけましたが、学校で「自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意思と責任と判断で行動する能力」を否定しておきながら、「選挙に関心を持って下さい」「投票に行って下さい」と求めるのは、全くのナンセンスです。

選挙はまさしく、「自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意思と責任と判断で行動する能力」の結果であるべきだからです。そうでないと、マスコミに操作された情報だけで投票してしまいます。

民主主義は、本来「自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意思と責任と判断で行動する能力」によって支えられているのです。
だからこそ、民主主義の国では教育が非常に大切になるのです。というかそのために教育があるのです。


日本の学校では「正解」を押しつけそれを覚えるように求めていますが、民主主義というものが生まれた欧米の学校では、「正解」がないディベイトや、様々な表現活動が大切にされているのもそのためです。

「自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意思と責任と判断で行動する能力」を失った人たちが行うのは「衆愚政治」と呼ばれるものです。

「自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意思と責任と判断で行動する能力」を失った子は、人間関係を作るのが苦手です。

試行錯誤したり、色々工夫するのも苦手です。

人の話を聞いたり、自分の考えや感じたことを相手に分かるように伝えるのも苦手です。精神的に自立するのも困難です。

最初の記事で「ゲームをやっている子は集中力が高い」ということが書かれていますが、それは裏を返せば、「ゲームをやっている子は、やるように言われた指示に従うことが出来る」という事でもあります。

「やるように言われたこと」に従うとストレスが溜まります。でも、そのストレスをゲームで発散できる子は、「やるように言われたこと」に従うことが出来るのです。

それだけのことです。

それは本当の意味での集中力ではありません。機械は24時間働くことが出来ますが、それは集中力とは無関係ですよね。

ゲームも放っておけばいつまでもやっていますが、それも集中力とは無関係です。「集中しているから続けている」のではなく、単に「止められないから続けている」だけだからです。

それは「中毒」と同じ現象です。タバコを止められない人も集中して吸っているわけではありませんよね。

私は、自由な造形や遊びの場で子どもたちと関わっていますが、ゲームばかりやっている子ほど、そういう自由な場では何をしたらいいのか分からず途方に暮れてしまいます。作ること、遊ぶこと、工夫することを楽しめないのですぐに飽きます。

集中してやれば楽しくなるのですが、集中力が育っていないのでその集中も出来ません。

それに対して、「本当の集中」では、それ自体が喜びなので、別の場でストレス発散などする必要がありません。

勉強が大好きな子は勉強に集中する事が出来ます。「ゲーム」のような娯楽でストレス発散する必要がありません。だから「たまには勉強しないでゲームでもやったら」ということもあり得るわけです。

皆さんだって大好きなことをしているときには、それ自体がストレス発散ですから、他にストレス発散の場を必要としないですよね。

記事の中に書いてある
「ゲームOK」の家の子供の方が集中力が高い

というのは、裏を返せば「ゲームでストレス発散しないと集中力が低下する」ということでもあります。

それはタバコ中毒の人がタバコを吸っていないと集中できないのと似ています。

ゲームをするから集中力が育っている訳ではありません。でも、その勘違いをしている人が非常に多いのです。

それだけのことです。だまされないで下さい。






Last updated  2019.07.22 09:09:45
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2019.07.21
カテゴリ:カテゴリ未分類
まだ生活がこんなにも便利になる前の時代に生きていた人たちは、自分の心や、感覚や、からだをフル活動させて生きていました。

自分の心や、感覚や、からだをフル活動させないことにはご飯も炊けなかったし、仕事も子育ても出来なかったし、危険から身を守ることも、食べ物を狩り、育て、採取することも出来なかったからです。

ですから、子どもたちも日常生活の中で自然と心や、感覚や、からだの使い方を学ぶことが出来ました。

その中には「人間関係を作る能力」も含まれています。

そして、同時に自己肯定感も育っていきました。
「現実の自分」と「頭の中の自分」が一致していたからです。

でも、様々な便利な機械が発明され、大人から子どもまで自由にそれらを使いこなし、心や、感覚や、からだがやっていたことまを機械がやってくれるようになってくると、生活の場で、心や、感覚や、からだを使う場面が減ってきてしまいました。

遊びでさえ、簡単便利になってしまいました。

その結果、子どもたちは、自分の心や、感覚や、からだの能力を育てることが出来なくなりました。

その一方で、自分自身の心や、感覚や、からだの働きとはつながらない「情報」はいっぱい頭の中に詰め込まれるようになりました。

その結果、その「情報」に基づく、「思い込みの自分」「思い込みの人間観」「思い込みの社会観」「思い込みの自然観」だけで生きるようになってきました。

でも、その「思い込みの世界」は現実の世界とはつながっていません。自分の体験を通して知った世界ではないからです。

そのため、「思い込みの世界」には、自分の心や、感覚や、からだを納得させる力がありません。

その不安定さが自己肯定感の低さの背景にあります。

さらに、子どもたちは刺激の強い人工的な音や、光や、情報に囲まれて生きています。
そのため、からだは使わないのに、心や、感覚は自然界にはないようなレベルの刺激に晒されています。

その結果、心や、感覚は自分の働きを守るために、外部からの情報を適度に遮断する能力を身につけるようになりました。

強い刺激をそのまま受け入れていたら壊れてしまうからです。

簡単に言うと、鈍くすることで身を守るようになったのです。

そのため、更に強い刺激が必要になってきました。

そして、「見ようとしなければ見えない世界」「聞こうとしなければ聞こえない世界」「感じようとしなければ感じることが出来ない世界」が人々の意識からスッポリと消えてしまい、「さあ見ろ」「さあ聞け」「さあ感じろ」と押しつけてくるものや、「自分が見たいもの」、「聞きたいもの」、「感じたいもの」だけが「この世界の全て」になってしまいました。

でも、そのような状態では自己肯定感は保ちようがありません。
現代人がセラピストなどのところに行って求めている「自己肯定感」は、本当の意味の自己肯定感ではなく「思い込みとしての自己肯定感」に過ぎません。

そもそも、自分の心や、感覚や、からだをフル活動させて生きている人には「自己肯定感」という概念自体がありません。

ただ「自分らしい自分」を生きているだけだからです。

確かにその鈍い感覚や軟弱なからだでも、簡単便利な機械を使えば普通に生活できます。何にも困りません。

でも、そのような状態では「子育て」が出来ないのです。

子育てには、「見ようとしなければ見えない世界」「聞こうとしなければ聞こえない世界」「感じようとしなければ感じることが出来ない世界」を見、聞き、感じることが出来る能力が必要だからです。






Last updated  2019.07.21 07:05:19
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2019.07.20
カテゴリ:カテゴリ未分類
また「声」に戻ります。

「声」には相手の意識や、感情や、からだの働きにダイレクトに働きかけ、それらを誘導する働きがあります。

「バカ」と書かれた紙を見せられても、そんなに気になりませが、「バカ!」と直接言われたら、憂鬱質の人は即座にからだが固まります。声が出なくなります。胆汁質の人なら「バカとはなんだ!」と怒り出すでしょう。

なぜなら、「文字」は書かれた時点で不特定多数の人がその対象になってしまうのに対して、「声」ははっきりとその人だけに向けられて発せられるものだからです。

ちなみに、憂鬱質の人は自分が怒られなくても、誰かを怒っている「大きな声」を聞いただけでからだが固まります。

子どもが言うことを聞かないと、大きな声で子どもを脅かして何とかしようとする人たちがいますが、実はこれは逆効果なんです。

確かに大きな声を出せば子どもを脅かすことは出来ます。子どもは怯えます。でも、同時に心とからだを固め、感覚を閉ざして、自分の心とからだを守ろうとします。

意識が心の内側に向いてしまうのです。

そのため、「怒られた」ということは分かっていても「お母さんが何を言っているのか」は聞いていません。

皆さんだって、怖い顔をして自分に対して怒鳴ってくる人の言葉に、丁寧に耳を傾けたりはしないですよね。

「何を言ってるんだこの野郎!」ですよね。言っている内容よりも声に反応して防御態勢を取ってしまいますよね。

だから子どもに大切なことを伝えたいのなら、大きな声を出さない方がいいのです。怖い顔も逆効果です。

「じゃあどうしたらいいのか」ですが、まず子どもと目線を合わせて下さい。
大事なことを伝えたいときには子どもの頭の上から怒鳴るのではなく、子どもと目の高さを合わせて、相手の気持ちを感じながら静かな声で言った方が子どもの心に届くのです。


その時、相手のからだに触れているとより気持ちが伝わりやすくなります。

大きな声で怒鳴るのは、全くの逆効果なんです。でもみんな、その逆効果な方法ばかりをやっているのです。
特に「待てない人」たちは。

「待てない人」は子どもの成長を待てないので、怖い顔と大きな声で、即座に子どもをコントロールしようとするのです。

で、それがうまくいくと、お母さんの前でだけ「よい子」を演じる子が出来上がります。

そして、それだけでお母さんは満足します。思い通りの子育てが出来たので、子どもが成長していなくても、なんの問題も感じないのです。

さらには、「ほら、子どもは叱ったり叩いたりしないとちゃんと育たないんだ」と周囲に自慢したりもします。

でも、そのような状態の子は、お母さんが見ていないところではそのストレスを発散しまくります。

そのような子育てを受けた子は、「成長につながる学び」が出来ません。
「自分を守ること」しか学べません。
そのため、大人になってから同じ事を繰り返します。

そこまでやりきれない大部分のお母さんは、何遍言っても言うことを聞かない子どもにあきれ、苦しみます。

怖い顔をして大きな声で叱っても、子どもには何にも伝わっていないのですから、それは当然のことです。

で、諦めます。

でも、だからいいのです。お母さんが子どもをコントロールしようとすることを諦めるから、子どもは自由を得ることが出来るのですから。

お母さんは「子どもが言うことを聞かないんですけど、どうしたらいいんでしょうか」と相談に来るのですが、私は「言うことを聞かないんですね、それは良かった。」と言います。

お母さんのコントロールに支配されていない子は、お母さんの言うことは聞かなくても自分の成長に必要なことは、自分で何とかするものです。

だから、コントロールすることを諦めて、見守ってあげていればいいのです。


何か伝えたいことがあったら、近くによって、目線を合わせ、子どものからだに触れながら、静かな声で伝えて下さい。

その方がよっぽど効果的です。
ストレス発散のために叱るのは止めた方がいいです。






Last updated  2019.07.20 06:09:17
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2019.07.19
カテゴリ:カテゴリ未分類
今日はちょっとテーマを変えます。

昨今、幼児虐待が増え、それで死亡してしまう子も増えていますが、そのような事件に対する世間の反応は親を非難するものばかりです。

でも実際には、悪人でなくても、普通の人でも、普段は優しいお母さんでも、高学歴の人でも、虐待を非難している人でも、人は誰でも追い詰められれば自分を守るために子どもを虐待してしまう可能性があるのです。

「絶対に自分はそんなことしない」と思っているような人でも、その意思が揺らぐような状況にまで追い込まれたら、その「絶対」は消えてしまうのです。

「子殺しは」、人間以外の動物においても珍しい行動ではありません。

「自分を守るか」「子どもを守るか」という、二者選択の状況に追い詰められれば人間も、動物も我が子を殺してしまうことがよくあるのです。

それは親の人格とは関係がありません。「自分の命」を守るための行為は本能的なものなので、そこに人格は関係がないのです。

夫のDVから我が身を守るために、一緒になって我が子を虐待してしまうお母さんもいっぱいいます。

戦争中、防空壕の中で泣き出した我が子の口を押さえ、窒息死させてしまった人の話を読んだことがあります。

満州からの引き上げの時にも、多くの足手まといになるような小さな子が現地の人に託されてしまいました。悪い言い方をすれば、子どもを捨てたのです。

でもそれは、お母さんをそこまで追い詰めた人や、状況の責任であって、お母さんだけを責めても問題は解決しません。

ただ問題なのは、現代人はそのような「命の危険」を感じるまで追い詰められなくても、「自分」を守るために虐待に走ってしまう人が多いということです。

この場合の「自分」は「自分の命」ではありません。命の危険を感じるまで追い詰められることは現代社会ではあまりないからです。

じゃあ、どんな「自分」なのかというと、「何でも思い通りにしたいという自分」です。

「自由な自分」と言い換えることも出来るかも知れません。

子どもが生まれると、確実に「自由な自分」は阻害されます。

その時、「一緒」を楽しむ感性が育っていればいいのですが、子どもの頃から一人で遊び、仲間と楽しく遊んだ体験も、家族で楽しく過ごした記憶もない人の場合は、「世界」が「自分」だけで閉ざされてしまっているため、「自分の自由が奪われること」は、「自分の存在」自体が否定されるような感覚に囚われてしまいやすいのです。


そのため、「自分の自由」を得るために、子どもに「不自由」を押しつけます。「しつけ」と称して、自分の価値観を子どもに押しつけようとします。

親が遊びに出るときに子どもが邪魔なので、家の中に閉じ込めたりします。
自分のことだけで頭の中がいっぱいなので、「子どもがどう感じるのか」などということは想像も出来ません。

ただし、ちゃんと食事は置いて行きます。「子どもの心」には関心がなくても、「死んでもいい」とまでは思っていないからです。

それは、ペットに対する感覚と同じです。

でも、子どもはペットのように従順ではありません。お菓子(餌)でしつけることも出来ません。怒鳴っても、叩いても、言うことを聞きません。

どんなに丁寧に、優しい言葉で説明しても子どもは理解してくれません。
子どもは「お母さんのため」にではなく、「自分のために」生きているからです。

結果、親は「自由」を奪われます。

そして、「自分を守るか」「子どもを守るか」という岐路に立たされます。そこで「自分を守る」ことの方を選択した人は子どもを虐待するようになります。

でも、本人は子どもを「自分の自由を阻害しない存在」にしたいだけです。そしてそれが「しつけというものの目的」だと思い込んでいます。
ですから、「虐待している」という認識はありません。子どもを殺したいわけでもありません。
その人はその人なりに子どもを愛しているのです。自分の所有物として・・・。

だから、我が子が他の人に叱られたり、他の子にいじめられると子どもを守るために怒ります。
自分はそれ以上のことを毎日やっていてもです。

子どものことをよく知らない人ほど、「子どもは育て方次第でなんとかなる」と思い込んでいるので、「子どもが言うことを聞かないのは自分のしつけがまだ足らないからだ」と思い込んで「しつけ」にのめり込んでしまうのです。

「こんなことやっていたら死んじゃうだろう」というようなことをしている人も、子どもを殺したいわけではなく、ただ「自分」を守りたいだけなんです。


でも、「子どもを守る」という生き方を選択できる人もいます。

その両者を分けているのが「待てるか」「待てないか」ということです。

人格とか、教養とか、学歴とかは全く関係がありません。

「待てる人」なのか「待てない人」なのか、
そこだけの違いです。

明るくて、楽しくて、優しそうなお母さんでも、「待てない人」は子育ての場で追い詰められてしまうと子どもを虐待してしまう可能性が高いのです。

でも根は善人ですから、そんな自分を否定して、罪悪心にさいなまれ、苦しくなります。
「子どもを虐待している人=悪人」ではないのです。

じゃあどうして、「待てる人」は虐待に走りにくいのかというと、「待つ」ということは「他者の価値」を認めることでもあるからです。

我慢強いから待てるわけではありません。「他者の価値」を尊重しているから待てるのです。だから「自分中心」のものの考え方をしている人は待てないのです。


スポーツや仕事の場では「待つことが出来る人」でも、一対一の人間関係の中で他者を待つ事が出来るとは限らないのです。

そして困ったことに「待てない子どもたち」や「〝ちょっと待って!〟が通じない子どもたち」が急増しています。

そのような子は、待たなければならないような状況でも待つことなく、「簡単に退屈を紛らわせてくれる刺激」を求めて行動します。

ちなみに、「待てない人」ほど自分の感覚に対する意識が弱いです。自分の感覚を大切にしていません。

意識が外側(外部刺激)にばかり向いてしまっていて、自分の心や、からだの中に意識を向けることが出来ないからです。


ですから、感覚を大事にしない社会では、必然的に「待てない人」が増えていくのです。

虐待も・・・・。






Last updated  2019.07.20 04:56:15
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2019.07.18
カテゴリ:カテゴリ未分類
よく、「子育てにはスキンシップが必要だ」と言われますが、それは「スキンシップ」が「安心」をもたらすからです。

幼児期の心が自然な状態ですくすくと育つためには「安心」は絶対的に必要なものです。そして、一番子どもが「安心」を感じるのが「お母さんに触れること」や「お母さん抱かれること」なんです。

でも、ただ「肌と肌を触れ合わせればいい」とか「抱けばいい」いうことではありません。

実は「声」ほどではありませんが、「肌」にもその人の「心とからだの状態」が現れるからです。

整体師のように人のからだに触れる仕事をやっている人は結構それを感じ取ることが出来ます。

そのため、治療しながら相手の心やからだと共鳴してしまい、トラブルを「もらってしまう」ことがあります。

触れなくても、一緒の空間にいるだけで「もらってしまう」こともあります。

セラピストのような人はそういうことがあります。

これは一般の人には分かりにくい感覚ですが、そういう仕事をしている人にはよくある感覚です。

ですから、「子育てにはスキンシップが必要だ」と言われて、義務として子どもを抱いても、お母さんの心とからだの状態によっては子どもは「安心」ではなく、「不安」をもらってしまうこともあります。

不安やストレスで固まってしまっているからだに触れていると、子どもにまで不安やストレスが移ってしまうのです。

以前から書いているように、「声」には「相手と共鳴する働き」がありますが、実は「皮膚接触」にも相手と共鳴する働きがあるのです。(武術ではそういうものを使ったりもします)

だからこそ、「子育て」ではお母さん自身の「セルフケア」が必要になるのです。

そんな時は「歌によるスキンシップ」が有効かも知れません。

ここまでズーッと書いてきたように、「声」にはその人の意識や、心や、からだの情報が含まれています。

ですから、「声に触れる」ということは、相手の意識や、心や、からだに触れることと同じ事になります。声でもスキンシップが出来るのです。

「絵本の読み聞かせ」も「スキンシップ」と同じ効果をもたらしてくれるのです。子どもはお母さんの声に触れ、安心を感じながら眠ることが出来るのです。

よく、「どんな本を読んであげたらいいのでしょうか」と聞かれますが、幼い子どもの読み聞かせでは、あまり内容に神経質になる必要はないのです。「お母さんが読んでいて心地いい本」なら何でもいいのです。

また、「何歳頃から」とも聞かれますが、何歳からでもOKです。生まれたばかりの赤ちゃんにだって読み聞かせをしてあげていいのです。

大事なのは「本の内容」よりも「お母さんの声」だからです。


子どもが「これ読んで」と持ってくるようになったら、子どもの好みも尊重してあげた方がいいかもしれませんが、それでも、お母さんが読みたい本でも構わないのです。

声は呼吸によって生まれます。そして、読みたい本を読んでいるときには深く呼吸が出来るのです。それがお母さんの心とからだを緩めてくれるのです。

嫌々読んでいるときには呼吸も浅くなります。

それとこれが今日一番言いたいことなんですが、「読み聞かせ」以上に「歌」にはさらに大きなスキンシップ効果があります。

なぜなら、歌は一緒に歌えるからです。

「声」にはその人の意識と、心と、からだの状態が含まれていますが、「声を合わせて歌う」ことで、お母さんと子どもの意識と、心と、からだの状態が共鳴するのです。

その一体感は、子どもだけでなく、お母さんにも安心と、幸福感をもたらしてくれます。


また、歌を歌うときに深く息を吸い、深く息を吐くことで、からだが緩みます。からだが緩めば心も緩みます。声も緩みます。

楽しい歌ならなおさらです。

上に「お母さんはセルケアが必要だ」と書きましたが、子どもと一緒に歌を歌うこと自体がセルフケアになるのです。

私がこの時期子どもたちとよく歌っているのは「カエルの歌」と「ホタルの歌」です。「ホタルの歌」は二種類あるのですが、いつも輪唱しています。

ものすごく心地よくて、美しい世界が生まれます。

以下に書いた上の方は皆さんが知っている「ホタルの歌」ですが、下はわらべ歌で歌われる「ホタルの歌」です。昔の子はホタルを捕まえてきて、かごに入れ、歌を歌いながら写真のように輪になって回して遊んだようです。

ちなみに写真に写っている子どもが持っているのは本物のホタルではく、ライトが入っています。

また、上の「ホタル」と下の「ホタル」を同時に歌うのもきれいです。ただしその時は下の方が短いので、二回繰り返します。

「ほたる」
     ほう ほう ほたる こい
     あっちのみずは にがいぞ
     こっちのみずは あまいぞ
     ほう ほう ほたる こい














Last updated  2019.07.18 05:45:53
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2019.07.17
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「声」にはその人の「意識と、心と、からだの情報」が含まれています。

「言葉の内容」ではなく「声」自体に含まれているのです。

「文字言葉」は、「声言葉」の中から「意識の情報」だけを一部残して、「心とからだの情報」を全部取り除いたものです。

例えば、ワークなどで二人組になってもらい「〝あ・い・う・え・お〟だけで会話して下さい」と指示すれば、みんな〝あ・い・う・え・お〟だけで、それなりに会話できてしまいます。

ちょっと斜め上を向いて、小さく〝あ!〟と言えば、「何かを想い出したのかな」ということが分かります。この〝あ!〟は軽いです。

何かを指さして強く〝あ!〟と言えば、「何かに気付いたんだ」ということが分かります。

〝あ~あ〟と首を縦に振れば、理解したことを意味します。

短く〝え!〟と言えば軽い驚きを意味しますが、長く〝え=〟と」延ばせば強い驚きになります。

また、〝え~え~〟と延ばせば、軽い同意を意味します。

この会話を文字で書いても、全く意味不明になってしまうのですが、声で表現すると意味が分かってくるのです。

(日本語はこの「声で表現する」要素が強い言葉です。だからその場では通用するのですが、文字化すると意味が分からなくなってしまうのです。)

ちなみに、へたくそな役者は、「言っている言葉」と、「声が表現していること」が一致していません。だからリアリティーが出ないのです。

私は洋画は基本的に字幕でしか見ないのですが、それは英語が分かるからではなく、実際に演じている人の声には「心やからだの情報」が含まれているのに、マイクの前でアフレコをしている人の声には、実際に演じている人の「心やからだの情報」が含まれていないからです。

そのため、アフレコの声を聴いていると、その不自然さと違和感を感じてなんかムズムズしてくるのです。
(ただし、声優でも上手な人はそれなりに心とからだの情報も声に込めることが出来ます。アイドルには全く期待していません。)

それらは「演技された声」なのでリアリティーがないのです。

お母さんが「よいお母さん」を演じていても、子どもは「お母さんの声」からその下手くそな演技を感じ取ります。

顔では笑っているのに、「声から感じるお母さん」が「怒っているお母さん」なら子どもはその違和感に当惑します。それが日常的なら、子どもは精神的に不安定になります。

「褒める子育て」を実践して、「すごいね」「やったね」とどんなに褒めても、そこに本気がなければ子どもは違和感を感じます。

子どもが生きているのは、「脳の解釈による意味の世界」ではないのです。子どもが生きているのは「実際に体が感じているリアリティーに満ちた世界」なんです。

そのため、子どもはお母さんが言っている言葉の意味を理解しようとはしません。というか出来ないのです。だから何遍言っても、どんなに丁寧に説明しても通じません。

すると、お母さんが怒り出します。そこで子どもは初めて「お母さんの本音」と出会います。

ですから子育てでは、「お母さんが何を言ったか」よりも、「お母さんがその言葉を言ったときの心とからだの状態」の方が重要になってくるのです。

子どもに「ウソ」は通じないのです。


お母さんが「よいお母さん」を演じていると、子どもはそのお母さんを真似て「よい子」を演じることを学び、お母さんや大人の前でだけ「よい子」を演じるようになってしまうのです。

そして、この「声からお母さんの意識と、心と、からだの状態を感じ取る能力」があるから、赤ちゃんはお母さんから声の出し方や言葉を学ぶことが出来るのです。

私たちが英語を学ぶときには、すでに知っている日本語に照らし合わせながら英語を学びます。でも、まだその日本語すら知らない赤ちゃんにはその方法は使えません。

じゃあどうやって「声の出し方」や「言葉」を学んでいるのかというと、お母さんの声を通して、「お母さんの心やからだ」と「自分の心とからだ」を共鳴させることでお母さんの能力を直接コピーしているのです。

コピーしているのですから、そこに「解釈」はありません。説明も不要です。

だからこそ、言葉というものを全く知らない状態の赤ちゃんでも、たった3年ぐらいでペラペラ話せるようになってしまうのです。

冷静に考えれば分かると思うのですが、言葉が分からない赤ちゃんに「声の出し方」なんて教えようがないのです。なぜなら、「声を出している時の舌や喉の動き」は見せることが出来ないからです。

でも、赤ちゃんはお母さんの「心」と「からだ」を模倣することで言葉を覚えているので、お母さんの「心やからだからのメッセージ」は理解出来ても、「頭から出た言葉」は全く理解出来ません。「意味」が理解出来ないのはそのためです。

それなのに大人は、子どもがちょっと言葉を話せるようになると、急に意味を伝えようとし始めます。言葉で知識を教えたり、しつけをしようとします。でも、通じません。

それで、「なんで、何遍も言っているのに分からないの!!」と怒り出します。

でも実は、思春期が近くならないと、子どもは「意味の理解」が出来るようにはならないのです。

子ども同士の会話を聞いているとそのことがよく分かります。

子ども同士が会話するときには、当然、子どもの能力に合わせた、子どもに通じる言葉しか使いません。そこにあるのは「共感」や、「感情の伝達」や、「簡単な情報の伝達」だけです。大人のように意味を伝えるような会話などしません。

子どもの言葉にちゃんと耳を傾けていると、どういう言い方をすれば子どもに伝わるのかが見えてくるのです。

英語で話してくる人には英語で返さないと通じません。
スペイン語で話してくる人にはスペイン語で返さないと通じません。

ただそれと同じことをすればいいのです。すると子どもと会話が出来るようになります。そこに少しずつ大人の言葉を交ぜていくのです。






Last updated  2019.07.17 08:26:11
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2019.07.16
カテゴリ:カテゴリ未分類
以前も書いたように、人の心は「物語」で出来ています。

脳にはたくさんの情報が記録されていますが、そのデータをどのように管理しているのかというと、データを物語化して、その物語とつなげることで管理しているのです。

それは、効率的な暗記方法で使う方法と同じです。

テレビなどで「こうすれば暗記力がアップする」という番組を見ていると、「暗記するものを一つの物語の中でつなげていくと覚えやすいですよ」と言っていますが、それがまさしく人間が物事を記憶する方法でもあるのです。

例えば、「お母さん」「ぺん」「料理」の写真を見せられて、「それらをその順序で覚えなさい」と言われたら、「お母さんがペンを持って、今日の夕食の買い物のリストを書いた」などというように物語化すると覚えやすくなります。

これは意識的に物語を作っているのですが、脳はいつもこのように自分が体験したことを自分の心の中の物語に合わせて理解し、物語の中に組み込むことで覚えているのです。

そして、自分の物語に合わないものはスルーします。物語に欠けている部分があると、勝手に記憶を捏造します。本来はそういう意味のものではなくても、自分の物語に合わせて解釈してしまいます。

「それはダメだよ」という言葉を、ある人は「親切に教えてくれた」と解釈し、別の人は「非難、否定された」と解釈します。

人は、相手の言葉を相手の意図に沿って理解するのではなく、自分の心の中の物語に合わせて理解しようとするのです。

それが人の心の癖なんです。しかもそれは無意識的なものです。だからやっかいなんです。

この心の中の物語の大きな流れを作っているのが、自分の感情です。

人は頭で理解し、頭で考えて生活しているのではなく、感情に合わせて理解し、感情に合わせて考え、感情に合わせて行動しているのです。

そして、その感情の基礎が作られるのが幼児期です。

だからこそ、幼児期における「感情育て」がものすごく重要になる訳です。

幼児期の子を知的な訓練ばかりに追い立てて、感情育てをおろそかにしてしまうと、学校に入ってからどんなに成績がよい子に育っても、自分の人生を「自分のもの」として生きることが困難になってしまうのです。

では、子どもの感情はどのように育てたらいいのかということですが、そこで重要になるのが「感覚に働きかける」ということなんです。

幼児期の感情は様々な感覚体験によって作られているからです。

大人になると「自分の感情」がある程度固定されてしまうので、感覚に働きかけようとしても、自分の感情に合わない感覚は拒否されてしまいますが、幼児期の子どもの感情はまだ柔らかいので、感覚の働きに素直に反応するのです。そして、その感覚体験によって感情が作られて行くのです。

7才を過ぎると、感情が落ち着いてきて「自分らしさ」の基礎ができはじめます。
すると自分の感情に合った感覚は受け入れても、合わない感覚は拒否するようになります。そのため、そこから感情の幅を大きく広げるのは難しくなります。
(それでも大人の感情に比べたら、思春期前の子どもの感情はズーッと柔らかいです。)

で、色々な子どもを見ていて感じることなんですが、幼児期に見聞きし、体験したことに対しては、7才を過ぎても違和感なく受け入れるのに、7才を過ぎてから新しく見たり、体験することに対しては、ちょっと壁があるのです。

「受け入れるか」「受け入れないか」の判断を必要とするようになるのです。

例えば、私の幼児教室では時々「劇遊び」をしています。変身ごっこなどもよくやっています。表現遊びはしょっちゅうやっています。

そういう体験をした子が小学生に入ると、自意識も強くなるので幼児期のように素直にはそういう遊びに参加者してくれなくなりますが、それでも、強い違和感を感じたりはしません。そういう遊びをしている子を見てもバカになどしません。「変だ」とか「気持ち悪い」などとは言いません。

でも、全くそういう体験がないまま小学生になった子は、そういう活動を見ると強い違和感を感じるようです。そして否定的な言葉を言います。

幼児期に造形的な活動を見聞きして育った子は、小学校に入ってからも造形的な活動に興味を感じるようになります。自分がやらなくてお母さんがやっているのを見ていただけの子も、造形が好きになるのです。

幼い子どもは、肌の色が違っていても、障害を持っていても一緒に遊べればそんなこと気にしません。最初はビックリしてもビックリだけで違和感にはつながらないのです。

で、幼児期に色々な肌の色の子や障害を持った子と仲良く遊んで育った子は、成長してからも、そういう人たちに違和感を感じません。そういう感覚が育ったからです。

最近はお年寄りを見て「気持ちが悪い」と言う子もいるそうです。
そういう子は、幼児期にお年寄りとの肯定的な関わり合いが乏しかったのでしょう。

私は、「子どもは7才までの感覚体験を通して感覚的な世界での母国語を育てている」と言っています。

赤ちゃんが母国語を学ぶときには、なんの判断も通さず、無条件に何でも受け入れています。空っぽな状態の中に最初に書き込まれる言葉が母国語なんです。

それに対して、第二外国語を覚えるときは、その母国語によって解釈しながら覚えて行きます。ですから、母国語にない概念は理解出来ません。

それと同じことが感覚や感情の育ちにおいても起きているのです。

だから人生最初の感覚体験を肯定的なものにしてあげる必要があるのです。
人生最初の感覚体験が肯定的なものなら、自分の感情に対しても肯定的になる可能性が高くなるからです。

そこで重要になるのが「耳の育ち」なんです。


もちろん、視覚的、嗅覚的、触覚的、味覚的な感覚の育ちも大切ですが、人間の人間らしさと一番つながりが強いのが「耳の働き」だからです。

でも、「耳の働き」は同時に視覚的、嗅覚的、触覚的、味覚的な働きともつながっています。
ギュッとされながら「大好きだよ」と言われた言葉と、触れ合うことも、目を合わせることもなく「大好きだよ」と言われた言葉とでは、感情に対する働きかけ方が全く違うからです。






Last updated  2019.07.17 09:59:53
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2019.07.15
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それと、「音」の重要な働きとしては「物語」をその内側に含んでいるということです。
それは「時間」を含んでいると言うことでもあります。

視覚は「今」「ここ」しか見ることが出来ません。場面が変われば即座に以前の画面のことは忘れます。

嗅覚や味覚や触覚も同じです。

でも、聴覚だけは時間の流れまで感じ取ることが出来るのです。だから、音楽を楽しんだり、言葉や物語を話したり、理解することが出来るわけです。

「今鳴っている音」や「今聞こえている声」しか聞こえなければ、音楽を楽しむことも、言葉を理解することも出来ないのです。

物理的には消えてしまっていても、心の中には「消えてしまった音」や「消えてしまった声」が時間順通りに残っていて、それと「今聞こえる音」や「今聞こえる声」とつなげることで音楽を楽しんだり、言葉を理解したりすることが出来るわけです。

視覚や味覚や触覚や嗅覚にも記憶能力はありますが、その記憶は断片的で、聴覚ほど時間とのつながりはありません。

私は「音」が好きなので、時々「音のワーク」をするのですが、部屋を暗くして、「音でジャングルの一日を表現して下さい」とか「家族の一日を表現して下さい」というテーマを与えると、夜明けのジャングルから、獣が起き出し、狩りをして、夕暮れになり、夜になり、みんな眠るという一連の流れを音だけで表現できるのです。

これは、音のプロでなくても、普通の親子でも楽しく遊ぶことが出来ます。

音はそれ自体の中に物語を含んでいるので、それをつなげることで、更に大きな物語を表現しやすいのです。「ガオー」という音の後に「ギャー」という音が聞こえるだけで人は何らかの物語を勝手に想像してしまうのです。

でも、視覚や、味覚や、嗅覚や、触覚ではそこまでのことは出来ません。物語や時間を含んでいないからです。

< 続きます>






Last updated  2019.07.15 09:14:02
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2019.07.14
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人は嬉しいときには笑い声を上げ、悲しいときには泣き声を出します。他の人と共感したいときにも声を出します。驚いたり、感心したり、ビックリしたり、喜んだときにも声が出ます。相手を脅かすときにも、愛をささやくときにも声を出します。

自然界も多くの音を出しています。

風の音、雷の音、水の音、葉っぱと葉っぱがこすれる音、歩く音・・・・

書き出していったら切りがありません。

そして、その自然界の音も「人の声」と同じように「人の感情」に働きかけます。

雷の音が聞こえると驚いたり、恐怖を感じたりします。
海の波の音を聞いていると心が落ち着きます。
風が強い日の風の音を聞いていると、心は遠くまで飛んでいきます。

私は、「風の音」が大好きです。

「アルプスの少女ハイジ」の映画を見ていて、都会に出て石造りの家に住んでいたハイジが、風が強い日に突然「風の音が聞こえる」と窓を開けるシーン(私の記憶ではそうなっていますが、もしかしたらちょっと違う描写だったかも知れませんけど・・・)を見てジーンとなりました。

他のシーンの記憶はないのですが、そのシーンの記憶だけがあるのです。

私は庭がそのまま山につながっているような家で育ちました。庭には普通に沢ガニが歩いていました。蛇や蛙やモグラもいっぱい出ました。

日常的に自動車が通っている道からは何百メートルも離れていました。

で、いつも聞こえていたのは風に揺れる木の葉の音だけでした。私は「風に揺れる木の葉の音」を子守歌に育ったのです。

そのためか「風の音」を聞くだけで、心が遠いところに飛んで行ってしまうのです。


これは私の個人的な体験に過ぎませんが、その個人的な体験を超えて、「声」や「音」には相手の感情を巻き込む働きがあります。

その際、心とからだの中にその音と似たような波長を持っている人ほど強く、その声や音の影響を受けます。気質も関係しています。

心の中に「風の波長」を持っている人は「風の声」を聴くことが出来ます。でも、「機械の音」に対する波長しか持っていない人は「風の音」に共鳴することはありません。「風の声」を聴くことも出来ません。そのような人にとっては「風の音」はただの「音」です。


赤ちゃんの泣き声は、お母さんの感情やからだにダイレクトに響きます。お母さんのからだは赤ちゃんのからだとリンクしやすい状態になっているからです。

そのため簡単に「赤ちゃんの泣き声」によって「お母さんの感情やからだ」が「赤ちゃんの感情やからだ」とリンクしてしまうのです。

だから「お腹がすいた」という泣き声を聞くだけで自動的におっぱいが張るのです。

赤ちゃん泣き声は、頭の働きを介さないと理解出来ない大人の言葉とは違い、頭を通さずいきなりお母さんの感情とからだの中に入ってきてしまうのです。だからこそ、言葉を持っていない動物たちでも適切な子育てが出来るわけです。

でも、お父さんは赤ちゃんと共鳴する波長を持っていないので、お父さんにとっては赤ちゃんの泣き声はただの「音」に過ぎません。ですから頭で解釈しないと、その意味が分かりません。お母さんのその苦しみも分かりません。

だからこそ「解釈しようとする努力」が必要になるわけです。

人は自分の中の波長に共鳴する音楽を聴きたがります。子どもはキーが高くハイテンポの曲を聴きたがります。年を取ってくると、キーがあまり高くなく、ゆっくり目のテンポの曲の方を聴きたくなります。

人は音を頭ではなく、感情やからだで聞いているので、感情やからだの状態が違ってくると聞こえてくる音や、聞きたい音が変わってくるのです。

老人になってくると、高い音が聞きにくくなるようです。ただ問題は、その高い声があるレベルを超えると、ものすごく攻撃的に聞こえてしまうそうです。
だから、老人の中には、子どもの甲高い声に異常に反応する人がいるのです。

老人でなくても、ストレスが溜まっている人ほど「子どもの甲高い声」を不快に感じます。

ストレスが溜まると、人のからだは緊張でガチンガチンになります。そのガチンガチンのからだが「子どもの甲高い声」と不自然に共鳴してしまうからです。

からだが緩んでいるときには聞き流せるのですが、ストレスが溜まっているときには、感情やからだが勝手に共鳴してしまうため聞き流せなくなってしまうのです。

また、素晴らしい音楽に出会ったときは、解釈などしようとしなくても、ただ聞いているだけで感動してしまいますよね。逆に、解釈しようとしてしまうと感動しないものです。

「頭の働き」が「感情の働き」を阻害するからです。

自分の趣味で読んだ本には感動することが出来ても、「後で感想文を書きなさい」といって読まされた本には感動しにくいのです。

「感情の働き」は「頭の働き」阻害し、「頭の働き」は「感情の働き」を阻害するのです。だからこそ、豊かな感情が育つべき幼児期には頭に働きかけることはあまりしない方がいいのです。
まただから、幼児期の子どもには頭に働きかける「文字言葉」ではなく、感情やからだに働きかける「声言葉」を伝えるべきなんです。


でも、その性質をうまく利用することも出来ます。
たとえば、どこかに痛みを感じたようなときは、痛みから逃げようとすればするほど痛みは大きくなります。

苦しみでも同じです。

その時、その痛みや苦しみと冷静に向き合って分析しようとすると、急に痛みや苦しみが小さくなってしまうのです。

子どもの言葉や行動に振り回されている人は、それをコントロールしようとするのではなく、冷静に観察するようにしてみて下さい。

コントロールしようとすると振り回されてしまうのですが、冷静に観察しようとすると、何が問題なのかが見えてくるのです。

でもこれは幼児期の子どもに必要な能力ではありません。

幼児期は、思いっきり笑って、思いっきり泣いて、ケンカして、ケガをして、ハラハラドキドキする毎日を過ごせばいいのです。

そうでないと、他者と共感する能力が育たなくなってしまうからです。






Last updated  2019.07.14 10:48:09
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2019.07.13
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昨日も書いたように、人間の五感のうちで「聴覚」だけはちょっと特別な働きをしています。

聴覚は視覚と同じように遠方からの情報を得ることが出来ます。しかも、目では見えないところから来る音まで聞くことが出来ます。家の中の音や、家の裏側の音まで聞くことが出来ます。鉄道の線路の検査では、内部の状態を知るために線路を叩いて音を聞いて調べています。コンクリートの検査などでも同じことをします。

そんな「見えない世界」や「触れることが出来ない世界」のことを知ることが出来るのは聴覚だけなんです。(嗅覚にもそれに近い能力がありますが、嗅覚が有効な距離は短いです。またその能力も限定的です。)

また、声を聞くだけでその人の心やからだの状態まで感じることが出来ます。
お母さんがイライラを隠して、笑顔で、優しい声で語りかけても、子どもはお母さんの声を通して、お母さんのイライラを感じ取ってしまうのです。(声を使ったウソ発見器があるくらいですから)

音は人を瞑想に誘い。歌は人に歓喜を与え、声は人と人をつなげます。

周囲の音を聞いているだけで、周囲の世界とつながることも出来ます。

一緒に楽器を演奏したり、一緒に歌を歌うと、心だけでなくからだまでつながったような感覚を感じます。

目は意識の働きとのつながりが強いため、批評し、認識し、判断しますが、耳は無意識の働きの方とのつながりが強いので、無条件にただ受け入れます。

そして、広大な無意識の世界の中で音を響かせます。すると、無意識の中で眠っていた何かが、その音に共鳴して目覚めます。

それは子どもの頃の記憶かも知れません。映画や本の中で体験した記憶かも知れません。胎内にいたときの記憶かも知れません。さらには古代から受け継がれてきた遺伝子や細胞の中の記憶かも知れません。

そして、それに伴う感情が目覚めます。これは無意識の世界の中で起きていることなので、何を想い出したのかは意識できないのですが、感情だけが湧き起こってくるのです。

音は魂に触れ、その人の深いところにある感情を目覚めさせるのです。

先日、ネットで、痴呆症で記憶を失ってしまった(ように見える)人に、その人が若い頃に聴いていた音楽を聴かせることで、記憶がよみがえることがあるというドキュメンタリー映画を見ました。

すごいですよ。目の輝きを失ってぼーっとしている人に、若い頃好きだった曲を聴かせると、みるみる目に輝きが戻り、意識も記憶も戻ってきて、若い頃の話をし始めるのですから。

音楽にはそれだけの力があるのです。

まただから、音の質によっては人に不安を引き起こすのです。
でも、人にはその理由が分かりません。だから音の影響に気付いていません。

うちの孫は低い声で話すだけで怖がります。嫌がります。ミッキーのような高い声にしてあげると「それでいい」といいます。

赤ちゃんは「ラ」の音で泣くと言います。「ドレミファソラシド」の中の「ラ」です。大人が子どもに話しかけるときには、大人と話すときよりも声を高くして話しかけます。

親しい人や大好きな人に話しかけるときにも声は高くなります。

「美味しそうね」「良かったね」「気持ち良さそうだね」というような「共感する言葉」を話すときも、声は高くなります。

理由は分かりませんが、高い音の方が意識や肯定的な感情に響きやすいのでしょう。

私はチベット密教のマントラ(真言)を聞くのが好きなのですが、マントラは腹の底から出てくるようなすごく低い声唱えることが多いみたいです。ダライラマが唱えるマントラのCD(非売品)も持っていますが、同じように低く響く声です。

高い声は意識や感情に響きやすく、低い声は無意識やからだに響きやすいです。だから子どもは嫌がるのでしょう。

チベット仏教と違ってキリスト教では比較的高い音を使います。人は高い音を聞くと高揚感を感じるからなのでしょうか。キリスト教における「天」が上の方にあるからなのでしょうか。

最近の若者が好きな歌はみんなキーが高いです。ちなみに緊張が強い人の声は高くなります。心とからだが緩んでいる人の声は低くなります。

また、昔の人は「音」を「あの世とこの世をつなぐもの」と考えていました。現代的には、「無意識の世界と意識の世界をつなぐもの」と言い換えてもいいかも知れません。

「匂い」にもそれに近い要素があります。

だから、東洋でも西洋でも、宗教的な儀式では音や匂いは重要な要素として扱われて来たのです。

ですから、幼い子どもにおける「音環境」は、大人が思っている以上に子どもの成長に大きな影響を与えているのです。

風や、水や、鳥の声などの自然な優しい音や、優しい声に囲まれて育った子と、自動車や騒々しい機械の音や、刺激的なゲームの音や、怒鳴り声などに囲まれて育った子とでは、無意識の状態が変わってくるのです。

知性や人格には関係しないかも知れませんが、安心感の育ちに大きな違いが生まれるのです。
また、人の言葉に耳を傾ける能力の育ちにも大きな影響が出ると思います。人や世界とのつながり方にも違いが現れるでしょう。

実は、音環境を整えることは、子どもの食育と同じくらい大事なことなんです。子どもは「食べるもの」でからだを育てますが、「聞くもの」で心を育てているのですから。

「じゃあ、耳が聞こえない子はどうなんだ」と言う人もいるかも知れませんが、そういう子は他の感覚が耳の働きを補うように働きます。






Last updated  2019.07.13 09:01:48
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