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森へ行こう(心とからだと子育てと)

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森の声@ Re[1]:「魂のはなし」(もう一人の自分)(06/10) めげぞうさんへ >6年生の子どもたちが、…

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森の声

森の声

2023.01.29
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カテゴリ:カテゴリ未分類
現代社会では「男性」と「女性」の違いを認めません。少なくとも公的にはそういうことになっています。
それは、「男性と女性の間には違いはない、だから扱いも同じにすべきだ」ということなんでしょうが、それは政治や観念の世界の中での話であって、私たちが生きている現実の世界の話ではありません。
そこを勘違いしていると、子育てが困難になります。

平等にすべきなのは「扱い方」ではなく、一人一人の「らしさへの対応」なんです。
それは、からだが大きな子には、「からだに合った大きな服」を与え、小さな子には「からだに合った小さな服」を与えると言うようなことです。
また中には、からだは小さくても「ぼくは大きい服が欲しい」と言う子もいるかも知れませんが、それもまた「らしさ」です。

それを、「平等にしなければいけないから」と全員に「平均サイズの洋服」を与えたら、平均サイズの子以外の子はみんな困るのです。それは「与える側の平等」であって、「受け取る側の平等」ではないからです。それは「価値観の押しつけ」に過ぎないのです。

このことに気付けば、ジェンダーの問題だけでなく、人種や肌の色による差別や、自然保護の問題や、発達障害の子の問題もみんな、一つの基準だけで解決してしまうのです。
でも、それが分かっていないから、分野ごとに別々の基準が必要になってしまうのです。

問題は、現代社会を維持しているシステム自体が、一人一人の「らしさ」を否定する事で成り立っているということです。

一人一人の「らしさ」を否定し、「人間」や「命あるもの」を数字として扱うことで社会の近代化が成功したのですからそれは当然の事です。
コロナ対策でも、国が相手にしているのは数字であって、私たち一人一人の命や、心や、からだではありません。皆さんの子どもの成長への影響なんて全く考えていません。

でもそれでは不満が出てしまいますから、その問題を解決するために「選択の自由」を与えています。色々なサイズの服を作っておいて、自分の「らしさ」に合わせて自分で選ばせるのです。
経済界はその「選択の自由」をうまく使って、一人一人が自分の好みに合ったものを得ることが出来るようになっています。

でも、経済界はそういうことが出来ますが政治の世界はそういうことが出来ません。
そして、一律に平等を決め、平等を押しつけてきます。でもそれは、「女性も男性と同じように」という「男性を基準とした平等」であって、「男性も女性と同じように」という平等ではありません。

私は、女性の多くは「男性と同じようにして欲しい」とは思っていないと思います。実際、「男性にあこがれている女性」には会ったことがありません。中にはそういう人もいるとは思いますが、少数だと思います。
これは、私の思い込みかも知れませんが、私には女性の多くが望んでいるのは、「男性化」でも、「男性と同じ扱い」でもなく、ただ「自分らしさ」を肯定してもらうことと「自分らしく生きること」のように思えるのです。
そしてこれは子どもも同じです。

男性は競争が好きです。そして、競争は数字の戦いです。人間を数字化せず個々の「らしさ」を認めていたら競争は出来ないのです。
でもだから、社会の近代化や、文明や、大きな国家を維持するためには男性原理が必要になるのです。
実際、一人一人の「らしさ」を肯定していたら、「子どもたち全員を椅子に座らせ、全員に同じことを教える」というやり方が出来なくなってしまいます。

でもその男性原理では子育ても、子どもの育ちを支えることも来ないのです。
そこが分かっていないから子育てや教育がおかしな事になってしまうのです。
発達障害と呼ばれる子や、学校に行かない子が大量に生まれてしまうのです。

性別も、「らしさ」も一人一人異なる子どもたちを一律に同じように扱おうとしているから、子どもも、お母さんも、そして先生も苦しくなってしまうのです。

そのそも、平等の基準を作り出しているのは観念論が大好きな男性ですからね。だから男女平等が「男性も女性と同じように」ではなく、「女性も男性と同じように」という話になってしまっているのです。最初から、男性は変わる気が無いのです。

だから、「女性の社会進出を助けよう」という議論はあっても、「男性を家庭に戻そう」という議論がないのです。だから子育てがおかしくなってしまっているのです。お母さん達が苦しんでいるのです。

教育の世界で、子どもに平等を与えようとするならば「自分が受ける教育に対して選択の自由」を与えるべきなんです。一つのやり方しか与えていないのに教育の平等を言うのはおかしいのです。それは子どもに対するイジメと同じです。

からだの大きな子にも標準的な大きさの服を与え、「ちゃんと着れない子はダメな子なんだぞ」と脅しているようなものです。

そして、お母さん達も我が子に対して同じことをしています。
自分の子と他の子を比較しています。
兄弟を比較しています。
そして、子どもの子どもらしさを否定し、自分の価値観に合わない行動を否定しています。

その時問題になるのが、多くの場合、お母さんには男の子の感覚や感情や行動が理解出来ないということです。
そのため、男の子の「男の子としては普通の行動」を問題行動、異常な行動として感じてしまい、否定し、叱り、直させようとしているお母さんが非常に多いのです。

でも、「女の子の育ちに必要なもの」と「男の子の育ちに必要なもの」は違うのです。
実際、「男の子」も「女の子」も両方育てたお母さんは、みんな「男の子と女の子は別の生き物だ」と言います。

基本的に男の子はチャレンジャーです。危ないことでもやりたがります。戦いや競争が好きです。(憂鬱質の子は例外です)
森や林の中で木の枝を見つければ拾います。男の子は「棒」が大好きなんです。
石を見つければ拾います。そして投げます。時にはいっぱい集めます。
刃物や電車のような「機械もの」が大好きです。固くて、大きくて、強いものが好きです。
高いところも大好きです。ジーッとしているのは苦手です。反抗的です。
また、群れたがります。大勢で群れて遊ぶのが好きなんです。(憂鬱質の子は例外です)

お母さんには理解出来ないこと、困ったことでも「男の子とはそういう生き物」なんですから、しょうが無いのです。

ただし、これらは「一般的な傾向としては」ということであって、実際には一人一人違いますからね。気質の影響も大きいです。
女の子でも胆汁質が強い子の行動は男の子に似ています。棒を振り回している女の子もいます。男の子でも憂鬱質が強い子の行動は女の子に似ています。

大事なのは「男の子らしく」でも、「女の子らしく」でも、「男の子も女の子も同じ」でもなく、「○○ちゃんらしく感じ、考え、行動すること」を肯定してあげることなんです。
だから、子どものことを学んだり観察したりして、我が子の「らしさ」を見極める必要があるのです。





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Last updated  2023.01.29 09:07:02
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