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森へ行こう(心とからだと子育てと)

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森の声

森の声

2023.03.13
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カテゴリ:カテゴリ未分類
善悪や美醜に正解はありません。

日本では家に入るときには靴を脱ぎます。靴を脱がないで家に入ったら叱られます。でも欧米では靴のまま家に入るのが普通です。

昔の日本では「食事中にはおしゃべりをするな」と言われました、でも、欧米では「食事の時間」は「おしゃべりを楽しむ時間」です。

そういう生活習慣だけでなく、人を殺すことでさえ、戦争になれば肯定されます。
仲間を殺すことを肯定する文化はないと思いますが、でも、それまでは仲間だったのに仲間ではなくなった途端に殺してしまうことはよくある話です。

善悪や美醜の基準は文化が違えば違います。さらに、同じ文化圏でも、時代とともに変化しています。それどころか、一人一人異なっていたりもします。

「ケンカは悪いことだ」というお母さんもいれば、「子どもはけんかをしながら成長してものだ」と肯定的に受け入れるお母さんもいます。

「ドロンコ遊び」を肯定するお母さんもいれば、「洗濯物を増やすな」とか「汚い」と言って否定するお母さんもいます。
「遊び」を肯定するお母さんもいれば、「遊びは無駄だ」と否定するお母さんもいます。

勉強も「成績のため」「よい学校に入るため」と考える人もいれば、「人生を豊かに生きるため」と考える人もいます。

それでも「共に生きる」ということを大切にしていた昔は、家や部族や村ごとに善悪や美醜の基準が決まっていることが多かったのですが、「共に生きる」ということを捨ててしまった現代社会ではそれもバラバラです。お母さんとお父さんでその基準が違うこともよくある話です。

「社会」というもの自体が人工的に作られたものですから、それを支えるための善悪や美醜の基準も人工的に作られているのです。だから社会の形に合わせて善悪や美醜の基準が違うのです。

でも、まだ「社会」というものに取り込まれていない状態の幼い子どもたちには世界共通の正解があります。
それは、命の働きが創り出している正解です。

世界中のほぼ100%の子どもが、お母さんが大好きです。(自閉症の子は不明です)
一人ぼっちにされることを嫌います。
どういうことを喜び、どういうことを嫌うのかということも共通しています。(気質によって異なりますけど)
幼い子どもには「憎しみ」という感情は存在しません。
そのため、子どもたちの感じ方も、考え方も、行動も、遊びも、時代や文化を越えて似ているのです。

世界中の子どもたちが水たまりがあったら入って遊ぼうとするのです。動くものがあったら追いかけようとするのです。
アフリカの子どもたちが大好きな遊びは、日本の子どもでも喜ぶのです。もちろん、その逆もあります。

基本的に、子どもたちが生きている世界は世界共通なんです。
「発達心理学」という学問を学ぶと、その「子どもにとっての正解」を知ることが出来ます。

でも、人種や、時代や、文化を越えて世界共通の世界に生きている子どもたちは、社会ごと、地域ごと、家ごと、個人ごとに正解が違う大人の社会では、困った存在になってしまいます。

幼い子どもたちは「大人たちが人工的に決めた美醜や善悪の基準」を知らないので、命の働きに従って本能のままに行動しようとします。その結果、大人とぶつかり、大人に叱られてしまうのです。

すると、怖いこと、痛いこと、悲しいこと、お母さんから嫌われることを避けようとする命の本能に従って、子どもは叱られることを避けるために、自分が理解できる範囲内でお母さんや周囲の大人の価値観に合わせようとします。
そしてそれもまた、世界中の子どもたちがやっていることです。

そうやって、子どもは大人の社会に適応していくのですが、でもそのことで、自分の心とからだの内側で働いている命の働きの声を聞く力が萎えて行ってしまうのです。

幼い子どもたちは、お母さんや大人たちのやっていることを見て善悪や美醜の基準を学ぶのです。ここで大切なことは「お母さんが言っていること」ではなく「お母さんがやっていること」を基準にしているということです。

子どもに「勉強しなさい」と言っていても、お母さんや周囲の大人が勉強していなければ、子どもは勉強すると言うことに肯定的に向き合えなくなります。

子どもを大勢集めて群れ遊びをさせようとしても、大人たち同士がつながり合い、支え合い、楽しく遊んでいなければ、子どもは仲間とつながって遊び出しません。

他の子をぶってしまった我が子に「ぶたれたら痛いんだから」と言って、その痛みを教えるために我が子をぶつ人もいますが、子どもは「叩かれた自分の痛み」は分かっても、「自分が叩いた他の子の痛み」は分かりません。当たり前ですよね。

それどころか、「お母さんからぶたれる」という行為を体験することで、「腹が立ったらぶってもいいんだ」ということを学んでしまうのです。

日常的に、お母さんが子どもの言葉に耳を傾けていなければ、子どもに「もっとちゃんと聞きなさい」と言っても無駄です。子どもはただ、「自分の要求を相手に押しつけることは正しいことなんだ」ということを学ぶだけです。

でも、お母さんが子どもの「子どもらしさ」を肯定していると、子どももお母さんの「お母さんらしさ(自分らしさ)」を肯定してくれるようになります。

お母さんが、「子どもと共に」ということを楽しんでいれば、子どもも「お母さんと共に」と言うことを楽しむようになります。

お母さんが子どもの言葉に耳を傾けていると、子どももお母さんの言葉に耳を傾けるようになります。

お母さんたちに、「もっと子どもの言葉に耳を傾けて下さい」というと「子どもを甘やかしていいんですか」と筋違いな反論をしてくる人がいますが、でも、お母さんが子どもの言葉に耳を傾けていないから、子どももお母さんの言葉を無視するようになってしまうのです。

我が子は「自分が子どもに何をしているのか」「どういう生き方をしているのか」ということを、お母さんに見せてくれる鏡なんです。





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Last updated  2023.03.13 08:26:57
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