|
カテゴリ:カテゴリ未分類
昨日は「自分のからだに意識を向けて下さい」ということを書きました。
「意識を向ける」ということは「感じようとする」ということでもあります。そして、「感じようとする」ことで、「そのもの」が存在しはじめるのです。 「からだ」を感じようとするから「からだ」という存在が現れるのです。 「自分」を感じようとするから「自分」が現れるのです。 「からだ」が存在しているから「からだ」を感じる事が出来るのではなく、「からだ」を感じようとする意識の働きが「からだ」を生み出すのです。 これは「からだ」や「自分」だけではありません。「木」でも、「石」でも、「光」でも、「愛」でも、「勇気」でも、「希望」でも、「神様」でも同じです。 客観的な存在としての「肉体」は感じようとしなくても最初から存在しています。だから本人の気持ちとは関係なく医者が扱うことが出来ます。 でも、「からだ」は「自分の意識」が創り出しているものなので、医者には扱うことが出来ないのです。 「石」はそこいら中に落ちています。でも、「石が大好きな人にとっての石」と「石に関心がない人にとっての石」は同じではありません。 だから、「物理的には同じ石」を見ていても、一人一人異なった「石」を見ているのです。 その違いは、その「石」の絵を描いたり、その「石」について詩を書いたりすれば分かります。同じものを見ているのに、一人一人みんな違う絵を描き、詩を書きますから。 私たちが生きているのは、「自分の意識と感覚が創りだした世界」なんです。 「自然が大好きな子」を自然の中に連れ出せば、自然の中に色々と「素敵なもの」、「キラキラしたもの」、「面白いもの」をいっぱい発見するでしょう。 でも、「自然が苦手な子」を自然の中に連れ出しても、「退屈なもの」「汚いもの」「面白くないもの」「気持ちが悪いもの」しか見えないのでしょう。 「この世界は悪人ばかりだ」と言う人も、「この世は善人ばかりだ」と言う人もいますが、それは「その人にとっては」というだけの話です。そこに全ての人にとって客観的な事実なんてありません。 悪人を探そうとすれば悪人ばかりになり、善人を探そうとすれば善人ばかりになるのです。 神様を感じようとすれば、そこいら中に神様を感じることが出来ます。 だから、子育てや教育では、単なる知識を教えるのではなく、子どもの不思議や、興味や関心をいっぱい増やしてあげた方がいいのです。 自分が生まれてきた世界の「否定的な側面」ではなく「肯定的な側面」をいっぱい伝えてあげた方がいいのです。 「勉強」を教えるのではなく「勉強の楽しさ」を教えてあげるべきなんです。 「勉強の楽しさ」を伝えることが出来れば「勉強しなさい」などと子どもを追い立てなくても子どもは勉強するようになるのです。 「優しいって嬉しい、気持ちがいい」ということを伝えることが出来れば「優しくしなさい」と怒鳴らなくても、優しい子に育つのです。 「考えるって楽しい」ということを伝えることが出来れば、「考えなさい」などと言わなくても、自分の頭で考えるようになるのです。 でも、「考える楽しさ」を知らない子に、いくら「考えなさい」と言っても無駄です。何を言われているのかすら理解出来ないでしょう。 多くのお母さんや先生達が、子どもに勉強を押しつけることで「勉強が嫌いな子」を大量生産しています。そういう子は「試験のための勉強」しかしなくなります。 問題は「勉強って楽しい」ということは、「勉強が楽しい人」にしか伝えられないということです。「この世界はすばらしい」ということは、「この世界はすばらしい」と感じている人にしか伝えることが出来ません。 だから、子ども達を積極的に「自分の人生を生き生きと生きている素敵な大人」と出会わせてあげて欲しいのです。 話が広がってしまいましたが、ゆっくり動くなどして自分の「からだ」に意識を向けてみて下さい。自分の姿勢や動きに意識を向けて下さい。深く感じることが出来るようになればなるほど自分のからだが豊かになりますから。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.07.03 05:41:44
コメント(0) | コメントを書く |