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私はいつも、子どもの育ちにとって「自由」がどれだけ大切なことであるかを書いています。
そして、同じように「自由であること」の大切さを訴えている人もいっぱいいます。 でも実は、子どもの育ちにおいては「自由」よりも大切なことがあるのです。それは「安心」です。「自由」はあっても「安心」がなければ、子どもは「自分の育ちや学びにつながるような活動」が出来ないからです。 子どもにとっては「安心」こそがエネルギー源なんです。 時々、子どもの言いなりになっているお母さんや、子どもの好き勝手にやらせているお母さんがいますが、そういう子どもは誰からも束縛されないのですから自由といえば自由ですよね。 じゃあ、そういう子どもが生き生きと、ノビノビと、素敵に育っているのかというとそんなことはないのです。また子ども自身も自由ではなく不安を感じています。自分を支えてくれるものがないのですから。 みなさんは、無人島に連れて行かれて「何をやってもいいよ、あなたは自由だよ」と言われたら喜びますか。自由に行動できますか。 最初は喜ぶ人もいるかもしれませんが、次第に不安を感じてしまうのではないでしょうか。 「自由」は「自分の力で得るもの」であって、「与えられるもの」ではないのです。「与えられた自由」は「自分にとっての自由」ではないのです。 それは、「糸が切れた風船」「重力がない宇宙空間に放り出された宇宙飛行士」と同じような状態です。そこにあるのは「自由」ではなく「不安」です。 子どものときのからだは軽かったですが、大人になるにしたがって重くなってきます。太めの人はなおさらです。重力のせいで自由に動けないし、すぐに疲れます。 だから、人類は空を飛ぶことにあこがれを感じ、空を飛ぶことが出来る機械を発明して、重力から自由になることを願ったのです。 不自由があったからこそ、自由を求め自由を得ることが出来たのです。 生まれつき手足が自由な人は、手足が自由なことは当たり前なのでそのことに自由を感じたりはしません。でも、病気やけがで手が不自由になってみると、手が自由であることのありがたさが分かります。そして「もっと大切に使おう」と思うかも知れません。 道具を使うときにも「不自由」と出会います。だから練習して自由に道具が使えるようになりたいと思って努力するのです。 大人が子どもに「自由」を与えることはできないのです。本人が努力して、自分の力で手に入れるしかないのです。 ですから、子どもに「自由な人間」に育って欲しいと願うならば、子どもが自分自身の努力で乗り越えることが出来る程度の不自由と、一緒に不自由を乗り越えようとする仲間と、失敗を許し見守る大人たちが必要になるのです。 あと、子どもの憧れになるような年上の子や大人も必要です。 自由に竹馬に乗っている子にあこがれるから、竹馬という不自由に挑戦しようとするのですから。 このように、「自由」は大人に与えられなくても自分の努力で手に入れることが出来るのです。 でも、「安心」はそういうわけにはいかないのです。 思春期を過ぎた大人は、自分で自分の意識を操作して、自分の力で「安心」を得ることも出来ますが、思春期前の子どもたちの安心は100%周囲の大人や仲間に依存しているからです。 自分ではどうしようもできないのです。 そして、安心があるから自由を手に入れようと頑張ることも出来るのです。不安が強い子は自分の心を守ることばかり考えてしまうので、自由を求めて努力するということも出来ないのです。 子どもにはまず安心を与えてあげてください。安心があれば、子どもは自分の力で自由を手に入れようとし始めますから。 「不自由」は、子どもが自分の力で「自由」を求めるようになるためのきっかけなんです。だから、子どもを自由にさせるだけでは自由に生きることが出来る人には育たないのです。むしろ「不安が強い人」に育ってしまうかも知れません。 ちなみに今の日本には「自由」はあっても「安心」がありません。だから、束縛はされていないのにみんな不自由になってしまっているのです。 そして、自ら「束縛してくれる対象」(依存対象)を求めています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.07.22 08:14:17
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