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森へ行こう(心とからだと子育てと)

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森の声@ Re[1]:「思春期以降の育ちを支えるもの」(普遍的な世界と出会う)(10/17) フィービーさんへ >孤独🟰幸せではない…

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森の声

森の声

2024.10.29
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カテゴリ:カテゴリ未分類
今、テレビでは選挙の話題でもちきりですが、NHKのサイトではこの「選挙の争点」を以下のようにまとめていました。

今回の衆議院選挙で重要な論点となる政策や課題。
「改正政治資金規正法」「政策活動費」「物価高の現状」「金融政策」「少子化対策」「防衛力強化・防衛増税」「憲法改正」「緊急事態条項」「女性・女系天皇」「選択的夫婦別姓」


今の日本人は、このようなことにしか関心がないのでしょうか。
実際、選挙に関するテレビのニュースを見ていても、「子育て」や「教育」に関する問題は全く存在しないかのようにスルーしています。

でも、「子育ての在り方」や「教育の在り方」は、国家の根幹や人類の未来につながる非常に大切なことなのです。これは誰も否定できない事実なんです。
戦争を起こすのも人間、そして、平和を創り出すのも人間です。それはつまり「どういう人間を育てるのか」ということが人類の未来を決めてしまうということなんです。

ですから、世界の平和を願うのなら「世界平和」や「戦争反対」を叫ぶだけでなく、子育てや教育の在り方についてもっと議論すべきなんです。でも、そういう視点から子育てや教育について発言している人をテレビでは見たことがありません。

また、今、学校に行けない子、学校に行かない子が増えています。学校に行っていても、学校が楽しい場ではなくなってしまっています。これは先生たちも同じで、先生たちも苦しんでいます。登校拒否する先生もいます。
うちの子が小学生の頃、「職員室登校」をしている先生がいました。職員室までは行けるのですが、自分のクラスには行けないのです。「保健室登校」の先生版です。

そんなこんなで、今、私の周囲には「子どもが生き生きするような学校(場)を作りたい」と言っている人がいっぱいいます。実際に、学校を作ろうとしている友人もいます。
そのような問題を扱った映画もあって、色々な所で自主上映会が行われています。

でも、なぜか私はそういう活動や映画にかすかな違和感を感じていたのです。最近、その違和感の正体が分かってきました。

それは、そのような場や映画では、「学校について」の議論はあっても「子どもの成長」や「教育について」の議論があまりないからです。「学校ありき」から話が始まってしまっているのです。

「学校」は教育の「入れ物」です。「中身」ではありません。確かに「入れ物の形」は「中身の質」に大きな影響を与えています。「入れ物」が歪めば「中身」も歪みます。「入れ物」ばかり立派でも、中味と合っていなければ中身は歪んだり腐ったりしてしまいます。

だから「学校という入れ物」について議論するのは的外れではないのですが、「学校」から話が始まってしまうと「本当の問題」が見えなくなってしまうのではないかと思うのです。

私は、まず「子どもの育ちを支えるためにはどういう教育が必要なのか」という議論が先にあって、「学校の形」は、その議論に合わせてその後考えればいいことなのではないかと思うのです。その結果「学校なんかなくてもいい」という結論があってもいいと思います。

私は、教育の問題はまず「人間とはどういう存在なのか」という議論から始まるべきなのではないかと思っています。「学校の形」や「教育の形」を考える前に、「その対象となる子どもをどう理解するのか」、「人間という存在をどう理解するのか」ということを考える必要があるのではないのかということです。

子どもや人間についての本質的な理解がないまま、「教育の方法」や「学校の形」を考えても意味がないような気がするのです。
幸せに生きることが出来るような子どもを育てるための子育てに必要なのは、「子どもの成長を支えるような子育て」であって、「お母さんの都合や、子どもの要求に応えるような子育て」ではないのです。

でも、そのような子育てを行うためには、子どもという存在、人間という存在に関する理解が必要になるのです。それは教育に関しても同じです。

今の子ども達の状態や要求に合わせて学校(入れ物」を作っても、社会の変化に合わせて子どもの状態は変化します。その際、「入れ物の形」から考えた教育では、子どものその変化に対応できないのではないかと思うのです。

実際、私が子どもの頃は「今の学校の形」が十分機能していました。一クラス50人いましたが、崩壊している学級などありませんでした。学校に行けない子も全く少数でした。多くの子が喜んで学校に行っていました。
今、学校は様々な困難を抱えていますが、それは学校が変わったからではなく子どもが変わったからです。
学校がその子どもの変化に対応できていないのです。

だから今の子どもの状態に合わせて新しい学校を作ろうとするのでしょうが、「子ども」や「人間」について深く理解し、その視点に立って「教育の在り方」に関する議論をしないまま、今の子どもに合わせて学校の形だけを整えてしまうと、またすぐに子どもに合わなくなってしまうのではないかと思うのです。子どもは常に変化していますから。

人類何万年という歴史の中で、「学校」というシステムが出来たのはつい最近のことです。日本も、明治になるまで、「子どもを育てる場」はありましたが、今のような「学校」はありませんでした。

ネイティブアメリカンの人たちは高い精神性を持っていますが、それは学校教育で育てたものではありません。「人と人のつながり」によって育ったものです。
なぜそう思うのかと言うと、日本でも同じだったからです。学校が存在していなくても、「人と人のつながり」があれば子どもは育つのです。
そして、そこが教育の原点なんです。


でも、近代社会を維持する能力を育てるためにはやはり「学校」というシステムが必要です。でも、「学び」の基本は「人と人のつながり」なんです。これは時代を超えて変わらないのです。

だから、「学校の形」から考えるのではなく、「人と人のつながりをどのように実現していくのか」というところから「学校」を考えた方がいいのではないかと思うのです。
もしかしたら「学校」という形をとる必要もないかも知れません。「人と人のつながり」がある場なら、子どもにとっては「学校」として機能するのですから。





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Last updated  2024.10.29 08:32:32
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