「自由を奪い合って戦うより、助け合った方が自由になる」
私は若いころバックパッカーでヨーロッパやアジアの色々な国を回っていました。スペインに半年、インドに二か月弱、後は色々な国を渡り歩いていたのですが、当然、かなりのカルチャーショックがありました。特にインドでですけど。みんな、電車やバスに乗るときに我先に中に入ろうとするのです。なぜかインドの人は布団のような大きな荷物を持って電車に乗ろうとしている人が多く、そういう人が、中の人が出てくるのを待たずに無理やり入ろうとするのです。「そういう人もいる」という状態ではありません。「みんな」です。それで、入ろうとする人は入り口で詰まってしまって入れません。中にいる人は出口が詰まっているため出られません。そこで、両者とも力づくで無理やり自分の目的を遂げようとするのですが、すごく長い時間がかかってしまいます。それを見ていて呆れてしまいました。同じような体験が中国でもありました。まだみんな人民服を着ている頃の中国です。こちらはバスで同じようなことをしていて、中はガラガラなのに中に入るのに長い時間がかかってしまいました。そんな時はちょっと譲り合った方がスムーズに行くものです。昭和の日本人はそのことを知っているので、譲り合うことに慣れています。でも、日本人の場合は、お先にどうぞ。いえいえ、あなたからどうぞ。そんなこと言わずにお先にどうぞいえいえ、あなたの方が年上ですからお先にどうぞなどと、譲り合いすぎて時間がかかってしまうこともあります。それはそれで問題ですけど・・・。だから、謙譲の美徳を大切にする日本人が、自己主張が強いインドや中国の人と商売などで戦って勝てるわけがないのです。常識が全く違うのですから。私がインドや中国で見たのは、「自由を奪い合うと逆に不自由になってしまう」という現実です。そんな時はちょっとだけ「自分の自由」を我慢して譲り合うだけで、もっともっと自由になることが出来るのです。(ただしこれも程度問題ですけど。)でも日本でも、「謙譲の美徳」という価値観はどんどん薄れてきています。相手の謙譲につけ入る人が増えてきたからなのでしょうか。電車などでも、年寄りがいても、子どもがいても、妊婦がいても気にしないで我先に席を確保しようとする人がいっぱいいます。ちなみにコロナ騒動が始まる直前に台湾に行ったのですが、台湾では優先席などなくても私が入ると必ず若者が席を譲ってくれました。100%です。(それはそれで複雑な心境でしたけど・・・)ネットの世界では「謙譲」は全く意味を持ちません。自己主張が絶対に有利なのです。「謙譲の美徳」が意味を持つのは、「顔が見える付き合い」「顔を知っている人同士」の間だけだからです。顔が見えない相手に謙譲しても意味がないのです。まただから、イジメでも顔が見えない状態だと過激になりやすいのです。「謙譲」だけでなく、「優しさ」や、「思いやり」や、「助け合う」といった「人と人との付き合い方の基本」は、顔が見える関係、大切な何かを共有しているつながり、ダイレクトに利害がぶつかり合うような状態の中で痛い思いをしながら学ぶしかないのです。子どもにとってはそれが「大切な仲間との群れ遊びの場」なのです。ネットの中での付き合いでは「人と人の付き合い方の基本」を学べるわけがないのです。大人や学校は、子どもたちに「ネットマナー」を教え、「ネットの中でもマナーを守りなさい」などと言いますがそれは「ちゃんと言ったからね、あとはあんたの責任よ」という責任の押し付けに過ぎません。もし本当に、子どもたちにネットの世界でもマナーを守るように伝えたいのなら、まず、リアルな世界で「大切な仲間と群れて遊ぶ体験」をいっぱいさせてあげるところから始めるしかないのです。リアルな世界で優しさや、思いやりや、謙譲や、助け合いといった「人と人とのかかわり方の基本」と出会っていないのに、ネットの中でそれを守れと言っても100%無理に決まっているのです。それは実際の木を見たことも、木に触れたことも、木と遊んだこともない子に「木を大切にしなさい」と言っているのと同じことだからです。そういう状態の子はネットの中では自由でも、実際に自分が生き、生活し、仕事をしている現実世界では不自由でしょうね。自分に自信を持てないし、人に自由を奪われる不安も強く、自分らしく自由に生きることも出来ないでしょうね。