「子ども同士の自由の奪い合いによる不自由」(群れ遊びの場で起きていること)
昨日は、大人には「子ども自身の自由」を与えることはできないですが「大人が作り出した不自由」を取り除いてあげることは出来るのです。そして、「大人が作り出した不自由」を取り除くことで初めて、子どもたちは「自由に生きるために必要な能力を得るための活動」を自由に行うことが出来るようになるのです。ということを書きました。皆さんが「子どもの成長」を望むのなら、「大人同士が自由を得るために発生した不自由」を子どもに押し付けるのはやめたほうがいいです。子どもには「大人が作り出した不自由」を解決する能力はないからです。そのため、「大人が作り出した不自由」押し付けられた子どもたちは、大人の目が届かない所で自由を得ることを学んでしまいます。それは時として、困った事件につながってしまうこともあります。大人が「イジメはやめろ」と一方的に押し付ければ、大人には見えない所でイジメるようになるだけのことです。ただし、「大人が作り出した不自由」を取り除いたからといって、子どもが自由になるわけではありません。子どもが子どもの群れの中で遊んでいる場合には、「子ども同士の自由の奪い合いによる不自由」が発生してしまうからです。そしてそれが「ケンカ」という形で表れます。でも、「子どものケンカ」は子ども同士で解決できるのです。子どもの最大の目的は「楽しく遊びたい」ということだからです。ケンカしたままでは遊べなくなってしまうのです。楽しくもなくなってしまいます。だから、「ごめんね」なんて言わなくても、いつの間にかまた一緒に遊びだすのです。子どもが群れて遊ぶ場を作っている人たちはそういう現場をいっぱい見ています。ただし、子どものケンカに必要以上に大人が介入してしまうと、子どもは「自分たちでケンカを解決する能力」を育てることが出来なくなります。それはまた、「自分の力で自由を得る能力」が育たなくなってしまうということでもあります。「ケンカするくらいなら一人で遊びなさい」と子どもを群れから引き離して、テレビやゲームやおもちゃで一人で遊ばせてしまっても、子どもは「自分の力で自由を得る能力」を育てることが出来なくなります。でも、そういう対応をしてしまう大人が多いのです。「子どものトラブル」が「大人のトラブル」に発展してしまうことを恐れているからです。それはつまり「大人の不自由」を子どもに押し付けているということでもあります。ただし、大人が介入した方がいいケンカ(トラブル)もあります。それは常に大人の不自由を押し付けられている子が、一方的に他の子の自由を奪おうとしている場合です。そういう子は、ほかの子を「一緒に遊ぶ仲間」として認識していません。そんな体験がないからです。「一緒に遊びたい」という気持ちを共有している子ども同士なら、ケンカしても自然と仲直りをすることが出来るのですが、最初から「自分だけ楽しければいい」という感覚の子は、仲直りする意味も目的も分かりません。もちろんそんな気持ちもありません。ただ邪魔なだけです。だから大人が介入しないことには、その群れ全体の遊びが止まってしまうのです。これは子どもだけでは解決できない問題です。そんな場合は、大人が介入した状態でその子を排除しなくても遊びが継続出来るようにサポートしてあげる必要があるのではないかと思います。ただし、黒子としてですけどね。大人の介入を嫌う人もいますが、「仲直りが出来ない子」にはもうすでに大人からの影響が深くしみ込んでしまっているのですから、今更「大人の介入」を排除しようとしても意味がないのです。むしろ、「親とは異なる対応をしてくれる(自分を認めてくれる)大人」との出会いが、その子の成長には必要なのではないでしょうか。排除することで解決するのではなく、その子の成長を支えることで解決するのです。ただし難しいのは、この方法には限界があるということです。子どもの成長に一番大きな影響を与えているのは母親や父親の価値観や、母親と父親の関係だからです。いずれにしても「子ども同士の自由の奪い合いによる不自由」は、子ども同士で解決することが出来ます。「群れ」しか遊ぶ場がなかった昔の子どもたちは、こうやって「私」から「私たち」という視点と意識を育てていたのです。(家族の中でも同じです)でも、今、「そのような学びをすることが出来る群れ」の中で遊ぶことが出来ている子は本当に少数です。ただし、「子ども同士の自由の奪い合いによる不自由」は、子ども同士で解決することが出来ますが、それだけで子どもが自由になるわけではありません。子どもたちの群れ遊びは自然の中で行われることが多いですが、その自然が「不自由」として立ちはだかるからです。起伏もあり、石や枝や木の実も落ちていて、色々虫もいて、ところどころぬかるんでいるかも知れないようなところで鬼ごっこするのは、学校の校庭で鬼ごっこするのとは比べ物にならないくらい不自由なんです。でも、子どもたちはその不自由を避けるのではなく、逆に楽しむことで乗り越えてしまいます。