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「免疫整体 ここ一番」院長の日記

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2009年03月17日
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カテゴリ:歴史のこと
 

《日本の先達の実際にあった美しい物語》

 

第2話 トルコ使節団救援秘話(その4)

この話のさらに詳細について知りたい人は、インタ-ネットで「トルコ使節団遭難事件」で検索してもらいたい。

 

 

さて、実はこの事件で、是非触れておきたい2人の民間日本人の話がある。

 

 

ひとりは、時事新報社の新聞記者である元士族の子、野田正太郎。

 

彼は慶応義塾出身の新聞記者で、この遭難事件をきっかけに各新聞社が義捐金(ぎえんきん)を集めるキャンペ-ンを打った。

 

そのキャンパ-ンで集まった時価約8千万円義捐金(ぎえんきん)を、代表してトルコ政府に渡すことであった。

 

もちろんトルコの69名の遭難救助者を、2隻の日本戦艦で送り届ける道中の報道取材一切も兼ねたものであった。

 

 

トルコに到着すると、一行は盛大な歓迎を受けたという。

 

当時トルコは、オスマン帝国末期の時代であり、強国ロシアと戦っていて苦戦をしていのである。

 

東端の小さな国が、巨大ロシアと勇敢に戦っている状況に感服し、多いに尊敬していた。

 

そこで、皇帝は一行の責任者である比叡の山田艦長に、乗務員の中から是非下士官を数名残して、トルコ大学で教鞭をとって欲しいと強く要請したらしい。

 

田中艦長は協定を結んでない国との要請には応じられないし、当時の列国への配慮も当然あることから、皇帝の再三の要請にも関らず、「任務があるから」との理由を付けて断り続けたという。

 

そして、苦肉の策として、こともあろうか、新聞記者の野田正太郎を本人の断りもなく、その任務の適任者として推薦したという。

 

 

野田正太郎は、最初は断固辞退していたが、トルコ政府と日本側の再三の要請に遂に落ち、現地に残って大学で日本語や日本思想などの教育に当たったという。

 

新聞記者としても、野田は、日本最初野海外駐在特派員だったわけである。

 

 

 

もう一人は、山田寅次郎という元沼田藩家老の次男坊で茶道家の後養子に入った人物。

 

山田は、この事件を知ると、自ら新聞広告を出すなど、先頭に立って民間に義捐金の一大キャンペ-ンを打ち、今の価値にして時価約1億円に上る多額の義捐金を集めた粋なひとであった。

 

当時の日本の新聞社が一斉に揃って集めた義捐金が、時価約8千万円だったことから、山田が集めた義捐金の額の凄さが分かる。

 

当時の政関係者もまた粋なもので、山田がその義捐金を外務省の窓口に届けると、当時の外務大臣が、「君の手から渡したらどうだ」と渡航の便宜を、色々と図ってくれたという。

 

 

翌々年山田は単身イスタングルに到達し、ワザワザ日本から遭難者遺族に義捐金を渡すために来たということで、トルコの国中から大歓迎を受けた。

 

 

ここで、既に大学で教鞭を執っていた野田にも会い、その紹介で皇帝に拝謁する栄誉も得ている。

 

2才しか歳の違わない若い2人は意気投合したという。

 

 

山田は貿易の仕事を始める一方、教鞭の手伝いをしたという。

  

1892年12月野田は、病気を装って帰国の途に着いたが、足掛け2年のトルコ駐在であった。

 

 

さて、山田の方といえば、その後もトルコに残り、貿易業のかたわら教鞭も執り続け、彼の教え子の中に、その後トルコが独立してトルコ共和国となった時の、初代大統領ムスタファ・ケマルもいたという。

 

山田の功績はそればかりでない。

 

ロシアと日本が遂に、衝突して戦争となった日露戦争(1904(明治37)年2月~1905年9月)で、当時世界最強といわれたバルチック艦隊が、インスタンブルを通過した時の戦艦名や形式などを克明に日本へ伝えたといわれている。

 

後に有名な日本海海戦で、東郷平八郎の率いる日本艦隊が、バルチック艦隊を見事に打ち破ったわけだが、山田の詳細な事前情報が多いに役立ったという。

 

いうなれば、歴史的勝利の陰の大功労者なのである。

 

 

残念ながら、第一次世界大戦でドイツ側についたトルコとは袂を別つ状況と成ったため、山田もトルコを後にするのである。

 

 

偉大なる先達の勇気ある行動に、心の底がメラメラとゆすられる思いである。

  

 

※  なぜこんなにまで親密になれた両国の中に、協定が結ばれなかったのだろう。

 

実は両国間では協定を結ぶべく、水面下の交渉はかなり活発であったようである。

 

しかし、当時日の出の勢いであった日本側の条件は、トルコをシナな朝鮮などと同じ目線で見たものであったという。

 

かつて、イギリスやアメリカなど列国が、日本に突きつけた通商条約の条件と同じだったのである。

 

 

やがて第一次世界大戦でドイツが敗れ、ドイツ側と組したトルコも同じ道を辿ることとなったのである。

 

あの壮大で偉大なオスマン帝国も時代の流れの中で消滅して行き、前記した、山田の弟子であったムスファ・ケマルがトルコ独立に奔走し、列国から独立を勝ち取り、トルコ共和国初代大統領となったのである。

 

 

歴史に「もし・・」はないものの、「もし」あの時、日本がトルコと純粋な心で、もっと積極的な国交を結んでいたとしたら、日本だけでなく、世界はまた違った方向に進んでいたのかもしれない。

 

トルコ使節団遭難事件から発した清らかで気高い友情も、いつの時代でもそうであるように、為政者や軍人が入ると一瞬の内に錆付いてしまったことは、ほんとうに残念であると私は思う。

 

しかし、両国の国民の、人間としてこころの片隅には、いつまでも温かい波動を発する宝石が、しっかり埋め込まれたのは確かなことである。

 

 

そんな宝石が幾つも幾つも埋め込まれた時、戦争のない永久の平和な人類の世界が、やがて訪れるのかもしれない。

 

(第2話完)

 

 

 






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最終更新日  2009年03月17日 10時56分13秒


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