《日本の先達の実際にあった美しい物語》
《日本の先達の実際にあった美しい物語》 第5話 「ドイツ科学学界を救った日本人 : 星 一」(その1) [モルヒネの国産化に成功] 星一(ほしはじめ)は若き日にアメリカに渡り、苦学してコロンビア大学を卒業、帰国して製薬会社や薬科大学を創立した実業家である。 彼の創くりあげた人脈には目を見張るものがあるが、そのひとりに政治家の後藤新平がいる。 後藤は、台湾総督府民政長官、満鉄初代総裁、逓信大臣兼鉄道院総裁、外務大臣、東京市(現東京都)第7代市長等の要職を歴任した近代日本を代表する政治家である。 また後藤は、若き日には医学を志してドイツに留学、帰国後病院長の経験も持っている。 板垣退助が岐阜で暴漢に刺されたとき、治療したのは後藤である。 さて、明治38(1905)年、31歳でアメリカから帰国した星は、まず製薬事業を始めた。 そして発展の転機となったのがモルヒネの製造だった。 当時、手術際の激痛を和らげるモルヒネの需要は激増していたが、欧米からの輸入に頼るしかなかった。 こうした事情を打開すべく、彼は、国産化の難題に挑戦した。 問題は原料であるアヘンを如何にして入手するかであった。 当時アヘンは政府の専売品だったため、国産品を製造するには国際相場の3,4倍も高い払い下げ価格で購入するほかなく、これでは商売として成り立たない。 そこで彼が注目したのは後藤新平が進めていた台湾におけるアヘン漸近策(徐々に廃止していく政策)だった。 後藤のとったこの政策が功をなして、19万人の麻薬常用者が大正2年には8万人まで減少した。 ただ、8万人に対しては未だ専売局でアヘンを管理提供しており、星はこの一部を安価で払い下げてもらうべく交渉し、後藤の仲介もあってこの許可を得ることに成功した。 こうして、我が国初のモルヒネ製造は軌道に乗り、星製薬は飛躍的な発展を遂げた。 しかし一方で、星の活躍を苦々しく見る面々もいた。 ひとつは同業者であり、もうひとつは星を支援する後藤新平の政敵やそこに群がる官僚たちであった。 謀略を用いても星の足を引っ張れば、ひいては後藤に痛手を与えることになると目論んだグル-プは、星製薬の潰滅を企てた。 その結果、許認可権を持つ官の理不尽な所業によって製薬会社は業務困難な事態に陥るが、星は決して怯むような男ではなかった。 陰謀との戦いに果敢に挑んでいった。(つづく)