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テーマ:塾の先生のページ(7616)
カテゴリ:いろんな雑談
で、なんでこんな猫ギター氏を他人扱いするような珍現象が起こったのか。春の睡魔に脳が溶かされ麻痺しただけではない。
自分自身と、自分が書いた文章が、必ずしも同一ではないということは、誰もが大なり小なり意識しているはずだ。 私自身と、ブログのペンネーム「猫ギター」は完全なイコールではない。 なぜイコールでないか、その理由の第1に「筆力の限界」がある。自分の心理をデッサンする能力の欠如は、自分自身と文章を乖離させる。 また文章を書くとき、「ありのままの自分」よりも、「かくあるべき自分」「人にこう見られたい自分」へ方向が傾きがちだ。 逆にストイックに「ありのままの自分」にこだわるあまり過度に自虐に走ると、これまた剥離の度合いは大きくなってしまう。 ただ私が「猫ギター」氏を別人と認識してしまったのは、筆力の問題もあるが、それよりもinputとoutputの関連性の問題が大きい。 他人のブログを読んで人から吸収するのがinputで、 自分でブログを書いて人に情報や視点を与えるのがoutputだが、ことはそう単純なものでもない。 日記を書いている時、私には読者にoutputしている意識は全くない。 日記を通じて読者に情報を分け与え、教育観を伝え、新しい視点を獲得してもらいたいという気持ちは皆無に等しい。 私は逆に日記を書けば書くほど、inputしている気がする。文章を書くことは吐き出す作業ではなく、吸い込む作業に感じてしまう。 私が文章を書いてinputする供給源こそ、「自分の内面」に他ならない。 私にとって日記や小説を書くことは、読者に自分の意見を開陳することではなく、自分の内面の奥底からinputする作業だ。村上春樹言うところの「井戸を掘る」作業に近いかもしれない。 掘り進めば掘り進むほど、内面という井戸からは、自分の想像もつかないような言葉が湧出する。 自分のオリジナルの言葉なのか、あるいは以前本で読んで、いったん忘却した内容が書くことで突然甦ったものなのかわからないが、とにかく井戸から噴出した言葉や思考は、私にとっては意外性のあるものだ。 意外性のある宝物を探り当て発掘する快感に酔うために、人は文章を書くのだと思う。 地球の住民である我々が、地球内の鉱脈の全てを把握しきれないように、人間は自分の内面には無知で、だからこそ可能性に満ちている。宝探しの楽しみがある。 そういうわけであるからこそ、自分が井戸からinputした言葉を「自分の言葉」「自分の考え」とあっさり定義してしまえば、何らかのズレが生じる。 考古学者が発掘物を「これはオレ自身だ」と言うのと同じ間違いだと思う。 自分の子供が自分と違う人格を持つように、自分の言葉も自分自身とイコールではない。 井戸の中身は自分自身でありながら、同時に自己の中の他者であり、他者が語った言葉に「自分の意見」の刻印を押すのは、少し躊躇する。 ただ、自分の井戸から掘り出した物体に、自分が大いに同調し共感していることだけは確かなのである。 掘り出した物体は可愛がられ、熱狂を持って迎えられ、言葉に変換されることを望む。 しかし文章にした途端、自分は読書や実生活から得た知識や伝統の通過点しかすぎないことに気付く。文章は自分自身ではなく、自分自身は自分の内面の語り部にしか過ぎないことを悟る。 言葉がリアルな自分の肉体から離脱し、決して嘘はついていないのだけど、自分自身と、自分自身が書く文章との距離を強く意識する。 とにかく私が書く文章は、明らかに自分から発したものだけど、イコール自分自身ではない。 だからこそ、ブログの「猫ギター」氏を、自分とは違う人間だと認識したのかもしれない。 ネット社会の闇の中に「猫ギター」氏がいて、彼が私に語りかけてくれるのを待つために、私は日記をせっせと書いているのかもしれない。 今日のブログを読んで、私のことを「天性の嘘つき」と思わないで欲しいけど・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006/06/03 04:40:01 PM
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