参詣講のネットワークの力を十全 に引き出すには、庄七の能力が必要であっ た。
「報徳思想の展開と結社運動」並松信久・尊徳の仕法地では, その足跡 ともいえる組織が ほぼ消滅 して いるに もかかわ らず, 駿河 ・遠江(現 在の静岡県)の 諸地域では, 結社組織である 「報徳社」が増加 している(図―1).これ は, 安居院庄七(1789~1863年)と い う人物 の普及に負 うところが大 きい. し か し, 安居院は二宮尊徳 と同世代で あるにもかかわ ら ず, その生涯において数度 しか尊徳 に会 っていない19). つ まり, 安居院は報徳思想を忠実に継承 してい くわけ で はな く, 報徳思想を安居院流 に解釈 し, それを広 め てい く. 安居院は, 近畿地 方 で 豊 富な農業知識を得, 万人 講を普及す る 目的で遠江地方に来 る.遠江の豪農や 老農が興味を もったの は, 万人講ではな く, 安居院の 農業技術に関する知識であ る. この農業技術 とは, 短 冊形苗代 ・深耕 ・正条植である(他 に, 鯨油による害 虫防除 ・土性転換法 などである). こ れ らの技術は, 「報徳の技術 」と して伝播 してい く. 安居院によ っ て, これ らの技術 と報徳思想が結びつ け られ る. 安居院は, 農業技術の使用について 「根元の父母に なる田地へ大孝行を尽 し, 共に共 に粉骨砕身 して勤行 致度事 に候」と説 く. 自分の伝え る技術は, 土 地に むか って勤労にはげむ ことによって成立す る. しか し, 勤 労は容易にできるものではない. 「諸 人 心を改め, 農業の道, 迷はず変ぜず惰 らず して, 風雨寒暑を厭 はず, 一筋 に粉骨砕身 して, 勤 行致度事 に候」と安 居 院は説 き, 禁欲的な生活を勧 める. 安居院が伝えた技 術は, 多労を必要 とす る(表-1).そ の 多 くの労働 力を捻出す るには, 禁欲的な生 活が必要であ る. した が って, 安居院 によ って, 農業技 術を活 かすため に, 報 徳思想 の中か ら勤労が導 き出され, 分度 は禁欲的な 生 活へ と転化 してい く. しか し, 技術の必要性を強調 して も, 定着す るには その地域 に技術を受け入れる基盤が な くて は な ら な い. 安居院の技術が定着 した地域 は, どのような特徴 を もって いたのであろ うか. 表-2か ら, この地域は 用 水費 ・区費が他地域に比べて高いことがわか る. つ ま り, 治水問題が地域の重要課題 であるこ と が わ か る. このような地域では, 農業生産 の安定性 は低 く, 地主層の窮乏を招 き易い. このよ うな基盤があ っては じめて, 安居 院の技術が受 け入れ られ, それと同時 に 安居院 によって解釈 された報 徳思想が受 け 入 れ ら れ る.つ まり, 治水事業に投入する資 金を生み出すため, 多労技術 による労働強化が行われ, その資金 は報徳社 組織 によって管理運営 されてい くこ とになる. しか も安居院の場合, 尊徳の ように分度を要求 して資金を出 させ る領主や藩は存在 しな い. したが って, 資 金の捻 出は, 農民の労働強化 と禁欲的な生活 とに求めざるを えない. た とえば, 安居院が指導 して仕 法が開始 され た石 田村の復興の場合(1857年 結社), 次のような過程 をた どる. 「其法厳密ニ シテ寛仮 スル所無 シ人民大ニ之ニ 驚 キ 或 ハ妻女家ニ 泣 クア リ或ハ子 ヲ負 フテ隣村ニ哀憐 ヲ求 ムルモノァ リ衣服 ヲ質ニ シ家屋 ヲ売却セ ン ト求ムルア リ一村 ノ惨状語ルヘカ ラス人気再タ ヒ挫折 シ社 中 ヲ脱 セ ン ト欲 シテ村社 ノ境 内ニ会スルモ ノ過半昼夜協議 ヲ 凝 シ甚 タ不穏 ノ状況 ア リ石垣氏大ニ 之 ヲ憂 ヒ同志 ト興 ニ力 ヲ尽 シ利害得失 ヲ説 明シ善法 ノ善法タル所 以 ヲ詳 カニ懇諭 ス村民又帰向 シ挙 テ其教ニ 従 ヒニ心無 ク其法 ヲ遵守スルニ至ル」.このような農民の労働強化 と禁欲的な生活に基づ い て, 報徳社組織の運営 がなされてい く。・ 勤労 と禁欲的な生活を軸 に, 組織形成を 目的 とす る報徳主義思想が形成 される. 安居院 は技術 を通 じて, 福住は組織を通 じて, 報 徳社運動の種をま くが, 両者を中心に報徳社運動が展開 したわ けで はな い. 報徳社運動は, 報徳主義思想の受け手となった遠 江地方の豪農によって担われ る。💛 「報徳主義思想の受け手となった遠江地方の豪農によって担われる」については、異論が出されている。「安居院庄七の報徳運動と参詣講」戸石七生「従来の「行政式仕法」と「結社式仕法」に加え、足立は遠江の報徳運動の隆盛の 原因を、岡田佐平治を始めとした「豪農層」 による「豪農指導型仕法」の存在に求める。 つまり、報徳運動の第三の類型である。 足立は、「豪農指導型仕法」は近世におけ る遠江の綿作の発展、東海道筋における商工業の蓄積によって経済力を蓄えた「豪農層」 の政治的台頭を、地域における領主権力の零細かつ分散した脆弱な支配が抑えられなかった結果、佐平治のような地域の有力者が領主権力を背景とせず、「豪農」同士がネットワー クを構築して行った農村運動と定義する。しかし、足立のこの主張は明らかに誤りであ る。まず、佐平治らが幕末に台頭した「豪農層」 であるというのは誤りである。山澄元の論文によると、庄七と共に尊徳に面会した前述の 大庄屋竹田兵左衛門の管轄に置かれた気賀地域は、中世の荘園であり、気賀荘と称してい たが、近世に入っても「気賀荘」と呼ばれ続 け、行政的に一つのまとまりを成していた。 逆に言えば、この地域における錯綜した零 細な領主支配は、中世から続く地域の一体性 や、村を超える広域的自治を行う大庄屋がいたからこそ機能したのである。それは、遠江の相給村(領主を複数持つ村)の比率の高さが証明している。岡田佐平治や竹田兵左衛門 のような大庄屋を長とする地域社会の自治能 力の上に依存しながら存在していたのが遠江の脆弱な領主権力である。決して領主権力が 脆弱だから「豪農層」の政治的台頭を許した 訳ではない。 さらに、「庄七の報徳運動によって地域有力者のネットワークが形成された」という のも誤りである。百姓身分とはいえ、大庄屋 になれるような家格の家は限られており、尊徳が役人に取り立てられたように一朝一夕に なれるものではなかった。当然、報徳運動以前から彼らの間に婚姻などによるネットワー クが存在していたはずである。その大庄屋層を、「豪農層」という曖昧な言葉によって、 幕末になって経済的実力を蓄えて政治的に台頭した層とするのは不適切であろう。「以前から存在した地域有力者のネットワークが庄七の報徳運動によって顕在化した」と解釈するのが正しい。 このような伝統的な地域有力者の自治組織 のネットワークによる運動と、庄七が利用し た参詣講のネットワークのネットワークによ る運動の双方が上手くかみ合った結果、遠江 における報徳運動は全国で最も盛んになった というのが筆者の結論である。ただし、参詣講のネットワークの力を十全 に引き出すには、庄七の能力が必要であった。それは、庄七死亡後、一時的に遠江にお ける報徳運動が衰退したことからも分かる。『福山先生一代記』によると庄七の生前は54 ヶ町村が報徳仕法を伝授されていたにも関わ らず、1867年には5ヶ町村(森町、天神町、 浜松町、気賀町、都田村)であったという。 報徳社は結社であるから、村や家計の立て直 しという目的を果たしたから解散したという のが最も大きな原因であろうが、庄七の働きかけの効果が薄れていったことが、人々のモチベーション低下につながっていた可能性も大きいと考えられる。檀家廻りをしなければ参詣講が維持できなかったのと同じ理屈であ ろう。 ・庄七は、佐平治のような庄屋層だけではなく、一般の農民にも親しみやす いアプローチをとった。宗教はもちろん、和 歌や謎かけ、歌など娯楽的・音声的な仕掛け を報徳仕法の普及に多用したのも、在村の知識人だけではなく、文字が読めない(あるい は読みたくない)百姓の心に届くようにと思 ってのことであろう。また、先行研究で述べ られているような稲の正条植や茶の栽培など の農業技術指導については、農業技術史の面 から庄七の貢献については検討の余地が多々 あるが、農業技術も百姓の関心を買うための 手段と心得ていたのかもしれない。幕末の農 村運動の核心である勤倹貯蓄についても、先 述の下石田村の規約を分析しても、五人組前書のようなありふれた文書をベースにしたも ので、尊徳や幽学に比べて特にオリジナリテ ィがある訳ではない。 庄七は理論家というより、実践家、 モチベーターとしての活動に重点を置いた運 動家であった。その素質や価値観は御師としての活動で養われたもの であったと言えよう。 ・鷲山は安居院庄七を「ただ敬神に鍛えら れ、崇高な道義に甦る精神家」であったとする。しかし、本稿での庄七を見ればそれは人柄の一部でしかなく、その場その場で、人びとの求めに臨機応変に対応してきた一面も あったと言える。ただ、それは裏返せば庄七の博識、視野の広さ、行動力、情報収集能力、 エンターテイナーとしての資質(雄弁さ、対 面での人心掌握能力)、そしてリスクを取る 勇気という美点の裏返しであり、時代を大き く変えるような運動家には必要な資質であっ た。 そして、それらの能力は蓑毛御師として庄七の前半生に培われたものであったとするの が妥当である。村人との会話のテーマが参詣の御利益から、報徳仕法のメリットに変わっ ても、庄七はあくまでも御師として生き、御師として死んだと言えるのではないだろう か。それは、本人が望むと望まざるにかかわ らず、民衆に寄りそう運動家としての生き方であったと筆者は考える。