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2023.11.20
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カテゴリ:神社仏閣・御朱印
手筒花火発祥の地「吉田神社」から豊川に架かる吉田大橋へ。
そこから次の目的地「彌健神社」のある吉田城方向を眺める。

吉田神社から北に数分の国道1号線の豊川に架かる吉田大橋から豊川と吉田城の眺め。
吉田城の本丸には所謂天守はなく、四方に櫓を設けたもので、現在はそのうちの一つの鉄櫓が昭和29年(1954)に復元されています。

豊川左岸沿いに本丸北側の「北御多門跡」に続く歩道が整備されており、積み方の違う石垣が本丸に続く。
河畔沿いから見上げる鉄櫓はなかなか迫力がある。

本丸から眺める鉄櫓(くろがねやぐら)。
吉田城は四隅の櫓で構成され、天守は持たなかったようで、写真の鉄櫓が天守の機能を持っていたとも云われます。
城は1505年に牧野古白が築城した今橋城を改称したもので、天正18年(1590)に池田輝政により整備・拡張に着手されたが、輝政の播磨姫路への移封にともない、事業は頓挫し輝政が描いた吉田城は未完成のままで廃城に至った。
城内には石垣や車輪、掘割の一部が遺構として残り、訪れた時は本丸の南側の石垣の復元作業が行われていました。

上は幕末に描かれた吉田藩士屋敷図の城内拡大図。
後に明治政府の廃城令に伴い取り壊され、その後は旧日本軍の部隊がこの地に置かれました。
城の遺構より旧日本陸軍の痕跡が多く残っており、現在の城内は市役所や美術館、スポーツ施設のある豊橋公園に整備されています。

本丸から西側に進んだ左が彌健神社のある金柑丸跡となります。
そこには「奮藩祖・豊城神社」と刻まれた社標と、奥に大きな石碑とその奥に彌健神社の鳥居の姿があります。

まず最初にここ奮藩祖・豊城神社、彌健神社に社殿はありません。
奮藩祖・豊城神社は、吉田城二の丸に鎮座していましたが、城外の豊橋市東田町北蓮田に源頼政を祀った豊城神社を建立した事から、社殿や吉田藩の膨大な記録などは全てこちらに移されたようです。
なのでこの石標は奮藩祖・豊城神社跡とみるべきかもしれません、礎石らしいものも残っていません。

石標から鳥居に向かう右側の大きな石碑は「歩兵第十八聯隊之址」と刻まれおり、豊橋公園の入口の門など旧日本陸軍の施設の痕跡が残されています。

奥に進み鳥居の前から全景を眺める。
鳥居右に「彌健神社」と刻まれた石標があり、その奥の靖国鳥居の柱の一方には「昭和8年4月3日建立」とあり、もう一方には「奉納・三遠国防義会」と記されていた。

更に進んだ右手に手水鉢(寄進年未確認)、その奥に金柑丸稲荷社跡の石標が見られた。
金柑丸稲荷社は築城とともに城内に祀られたもので、後の明治11年(1878)に前回掲載した吉田神社に遷座されたもの。

参道を進むと本来は彌健神社の社殿があるべきところに一体の銅像があります。

その銅像は神武天皇。

銅像右手の略記。
それによればこの像は明治27~28年の日清日露戦役後に戦勝記念として建てられたもので、銅像の顔は時の明治天皇をモデルとしたもので気高い風格を魅せる。
三河・遠江・駿河・伊豆の四か国の浄財で建てられ、愛国魂のこもった権化として崇敬された。
しかし後の太平洋戦争の敗戦から八町練兵所から、ひそかに御安奉の場として遷座に至った。
昭和40年、ここ吉田城跡の本丸出ぐるわの一角の保食神金柑丸稲荷を祀った清地に、仮の御座所として再び銅像設置に至ったとある。尚、この銅像の作者は不明なのだと云う。

つまりは愛国のシンボルとして、初めて国を治めた初代天皇とされる神武天皇を祀り、練兵場内の営内神社として設けたのが彌健神社のようです。

本来ここに社殿があってしかるべきだろうが、一時期に於て愛国神や国の象徴として崇敬するには目に見える姿のこうした像が必要な時もあった。
終戦以降、戦争のない平和で穏やかな日々があたりまえとなってしまったが、日本の長い歴史の中で戦争のない穏やかな日常は僅か100年にも満たない。
今世界を見渡せば火薬の臭いが漂う怪しい状況になっている、満足に自国で賄えない国がいつまでも穏やかであって欲しいが、僅か100年にも満たないぬるま湯が、冷水に変わらないと云えるだろうか。
戦時中の遺構を目にすると、平和に感謝する自分と、平和ボケした緊張感のない自分、いろいろと考えさせられる。

吉田城金柑丸
奮藩祖・豊城神社 / 東田町北蓮田に豊城神社として移転
彌健神社 / 明治32年(1899)八町練兵場の南に鎮座、大正5年(1916)現在地に移転
金柑丸稲荷社 / 明治11年吉田神社へ遷座
所在地 / 豊橋市今橋町3(吉田城内金柑丸)
訪問日 / 2023/10/14
吉田神社から吉田城 / 国道一号線歩道橋を越え、今橋遊歩道で北御多門跡まで​15分前後
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・​手筒花火発祥之地 「吉田神社」





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Last updated  2023.11.20 00:00:36
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