|
カテゴリ:神社仏閣・御朱印
三筒町の八柱神社から県道353号線(大平折平線)を西に向かい峠を越えます
白川町の信号のある交差点を左折、石畳ふれあい広場で右折し、高根山東麗に鎮座する石畳 八柱神社に向かいます 神社までの移動距離は3.2㌔、約10分程でした 上の写真は石畳ふれあい広場西側から直進した石畳町中道地区の写真 神社へは普通車では近寄れないので歩いて行く方が賢明です ①が麓から上ってくると最初に目にする光景です ②は神社方向に通じる細い車道 ③は神社に向かう道 ④が社頭に向かう道 まず現地についてこの入口が分からず、②の先に車一台止められる余地があり、そこに駐車して入口を探す事から始まりました 社頭に向かう④の道を進んだ先の光景 道は二手に分かれ、竹藪沿いを奥に進みました 結果として、右手からも境内の舞殿横に繋がっていました 竹藪を抜けると鳥居と社号標の真横に至ります 鳥居の正面はフェンスで仕切られており、ここが社頭と言っていいでしょう 八柱神社社標と歩いてきた参道? 寄進年は昭和18年(1943)のものでした 精一杯フェンスに寄って撮影した石造明神鳥居と舞殿に続く参道の眺め 鳥居の寄進年も昭和18年(1943)で額は「八柱神社」 舞殿と拝殿の眺め 境内右手に境内社と見慣れた解説板が立てられています 舞殿全景 木造の方形造?で下部に腰板が張られた四方吹き抜けのもの 舞殿左に藁馬が奉納されています 藁馬 祭礼用なのか、奉納されたものか定かではありませんが、こうした藁馬に神さまが乗ると信じられ、祭礼が終われば厄除けに燃やされるものと思っていましたが 稲を収穫した後の藁は、昔から生活必需品で、身の回りの履物から縄、畑の飼料や建物の素材として利用されてきました 米を得た後の廃棄物ではなく、日常生活と藁は密接に関わってきたのです 舞殿から祭文殿の眺め 大正11年に寄進された一対の常夜灯がありますが、狛犬の姿はありません 祭文殿 入母屋瓦葺の妻入り祭文殿で後方の鞘堂に繋がっています 社殿全景 鞘堂全景 鞘堂内の本殿は春日造りの一間社 本殿前には手で綯わられた注連縄と藁が供えられていました 境内の解説板 「15等級 八柱神社 旧村社 鎮座地 豊田市石畳町上曽根39番地2 祭神 天忍穂耳尊、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野久須毘命、市杵島姫命、瑞津姫命、田心姫命 由緒 社伝に寛文八戌申年(1668)11月21日勧請とある 往古より石畳の氏神として崇敬 明治6年(1873)村社に列格 大正元年(1912)12月27日御殿建立 昭和28年(1953)10月11日祭文殿新築 例祭日 10月第二日曜日 特殊神事 神輿」 wiki情報によれば、藁縄の売却代を元手に高根山の荒れ地に植林が行われ、昭和28年(1953)にはその売却益で本殿が建立されたとある 西加茂郡誌に記された八柱神社の記述は以下でした 「村社 天忍穂耳尊他七柱 創建 未詳 氏子 大字上渡合石畳 祭礼余興 献馬・棒の手」 境内には以下の境内社がありますが、そこについての言及はなく、詳細は良く分からなかった 境内右の境内社 社名札がなく詳細は不明ですが、覆屋の中に「天王社・金比羅社社堂が再建」の木札が掛けられていました 左に二つの石の社があり、〇〇稲荷大明神と〇〇大権現と彫られていましたが、肝心の〇〇は写真から読み取れなかった 右の板宮造りの二社が天王社・金比羅社と思われます 多くの寄進者により、昭和に入り再建されたようです 社地右から境内の眺め 参道から社頭の眺め 今はフェンスでここから先は進めませんが、その先は樹々が伐採され長い参道が続いていたように見えます 今回の中馬街道沿いの神社巡りも石畳町の八柱神社でひと区切りとなります この後は、麓にある石畳ふれあい広場の足湯で足の疲れを癒し帰路に着きました 猿投神社を訪れる前に、周辺の神社を巡ろうと始めましたが、参拝を見送った神社もあります 爽やかな風が吹く新緑が綺麗な時期に、猿投神社と猿投山の三角点まで行きたいと思います 石畳町 八柱神社 創建 / 天正3年(1575) 祭神 / 天忍穂耳尊、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫲日命、市杵島姫命、田心姫命、瑞津姫命 境内社 / 不明社4社 例祭 / 10月第4日曜日 氏子域 / 所在地 / 豊田市石畳町キビ夫 西市野々町 八柱神社から車アクセス / 神社から県道353号線(上渡合土岐線)を西に向かい、引地交差点の信号を左折、石畳ふれあい広場で右折・直進、距離3.2㌔、約10分程 参拝日 / 2024/04/18
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.05.16 09:03:27
コメント(0) | コメントを書く
[神社仏閣・御朱印] カテゴリの最新記事
|