岩倉城趾(岩倉市下本町)
前回掲載した大市場の縣明神社を後に、県道166号線を西に向かいます。200mも進めば五条川(幼川)に架かる城址橋に至ります。 写真は城址橋から護岸整備された上流の眺め、堤沿いは尾北自然歩道が伸び桜並木が続きます。春ともなれば多くの花見客が訪れるところです。下流側の眺め、なんとなく護岸の様相が上流側と違って見えます。 行儀よく流れる五条川ですが、川の付替が行われた昭和以前は、この橋を境にして西に大きく蛇行していました。今回からは付替が行われる以前の旧五条川を辿るように歩いて行くことになります。 目的地は城址橋を越え、下本町城址交差点の先にある岩倉城趾です。下本町城址交差点から県道166号線沿いを1分ほど西に進むと、左側に写真の岩倉城趾が現れます。 歩道沿いの一本の大木が目印だろうか。歩道沿いに建てられた岩倉城跡の石碑。 岩倉には丸之内や市場など、かつての城下を忍ばせる地名が残ります、岩倉城跡の所在地は岩倉市下本町城址、そのまま地名として残っています。上は明治時代とほぼ現在の地図の比較で、右の赤い線が付替前の五条川になります。 明治時代には、まだ城址橋はなく、右岸河川堤防上に城址の碑が建てられているだけで、城を思わせる地割や堀跡などは見られません。城跡の全景。 左に「日露戦役記念碑」、中央に大きな不動明王、右に「織田伊勢守城址」の石標が建てられています。かつての岩倉城本丸跡のこの地に、安政七年(1860)から立っているもの。岩倉城は落城時期ははっきりするが、築城時期については幾つかの説があります。 以下は歩道沿いにある岩倉城跡の解説。『岩倉城跡 昭和四十九年二月十五日市指定 岩倉城は、文明十一年(1479)に織田伊勢守系の兵庫助敏広が築城した。敏広はこの城によって、尾張上四郡(丹羽・采葉・中島・春日井)を支配し、下四郡(愛知・智田・海東・海西)を支配する清州城の織田大和守俊定に対し武威を示し、当時の尾張では清州城と並んで最も重要な城であった。 城跡は、東西約91m、南北約171m、標高10mの台地上にあって、内外二重掘があったとされ、城址の南側には外堀や丸の内といった地名も残る。岩倉城は弘治三年(1557)織田伊勢守信安が末森城主織田信行(織田信長の弟)と同盟を結んでいたことから信長に攻められ、永禄元年(1558)の浮野合戦で敗れ、翌年の三月に落城した。 本丸跡の「織田伊勢守城址」の碑は安政七年(1860)に建てられたもの。』尾張名所図会には浮野合戦で敗走し岩倉城に逃げ戻る織田信安・信賢の姿が描かれています。 この後、信長は兵の消耗を避けるため、城を包囲する戦略に出て、持久戦に追い込まれた岩倉城は落城、城は信長により徹底的に破壊されたという。それ以降再興されることなく、城跡は水田や宅地に変わったものの、大規模開発が行われること無く今に至っています。写真は岩倉城の復元図。 1990年頃、城跡の発掘調査が行われ、車輪跡や堀跡などの遺構の手掛かりが見つかり、それらを基に復元されたのがこの復元図。調査では五条川右岸に6本の堀に囲まれた堅固な城で、五条川は水運として、第7の堀として利用したようだ。 また、城下の範囲もかなり大きく、対岸の大市場や北側の下市場、南側の曽野神明社付近の字名居屋敷が屋敷地として大手口や武家屋敷が広がっていた。 城内に籠城する織田伊勢守方の軍勢は、信長に火をかけられ、燃え落ちる城下を見届けるしかなく、昼夜問わず弓や鉄砲で生け殺しにしてくる信長勢に休む暇すら与えられなかったようだ。岩倉城の落城により、尾張上四郡を手中に納めた信長は尾張支配に大きく前進した。現地ではあまり遺構は見られないかもしれないが、県道から眺める「織田伊勢守城址」の石標が、ここに城があったことを伝えている。岩倉城趾石標から県道を渡ると、微妙に曲がりながら北に延びる小道があり。 突き当りを右に向かい、すぐ左の小道を進めば神明生田神社に至ります、その道が付替前の旧五条川です。岩倉城趾(岩倉市下本町)築城 / 文明11年(1479)頃築城主 / 織田敏広廃城 / 永禄2年(1559)所在地 / 岩倉市下本町城址121 縣明神社から岩倉城趾 / 縣明神社の社頭から県道166号線を約300mほど西に向かい、城址橋を越えた県道左側、徒歩5分程。参拝日 / 2026/6/5関連記事・稲荷社 (岩倉市稲荷町)・曽野神明社 (岩倉市曽野町)・大市場神明社 (岩倉市大市場町)・縣明神社 (岩倉市大市場町)