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映画・演劇日誌

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2011.08.14
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カテゴリ:カテゴリ未分類
自慢やないけど、客側に居てて、一番最初にこの作品を「素晴らしい」と林君に伝えたのは、私だ。
初演の初日、幕降りて、30秒後に「これは林君の最高傑作や」と本人に伝えた。二番目は三枝希望さんだ。

戯曲塾の講師をしていながら、絶対教科書に掲載されない作品群を生み出し、ますます、奇才ぶりを発揮する林慎一郎の現時点での最高傑作である。

私の今の興味ある観点からしか語れませんが、
「サブウェイ」は劇構造により「思想」を浮かび上がらせる手法なのではないだろうか。
7日間という場面分けで、その曜日曜日のブロックを積み重ねていく。
ドキュメンタリー視点という原動力でもって、地下鉄の乗客の生活の表層とにじむサブテキストを洗っていく。シーンの冒頭で各キャラクターのモノローグがある。「セックスアンドシティー」を借りまくるののあざみさんのモノローグと地下鉄ポールダンサーの妄想を持つイジリさんのモノローグが印象に残る。
ののさんは怪演に近い。体がめちゃくちゃ大きく見える。アグリーの芝居で何度も見ているが、あんなに体大きかったかな、もともと小さくはないのでしょうが、演技でもって、大きく見える。自意識は体を膨張させるのだ。
イジリさんのは、およそ、ダンサーの体つきではない(チャーミングな体つきではあるんだよ)体つきで、地下鉄の中で妄想するのは、アメリカ映画なんかのストリップ劇場シーンでのポールに絡みつきながら、あのジェニファービールス的なマドンナ的なよくわかんないけど、エロダンスだ。これはせつない。

モノローグのとき、同じ場面にダンスが付随する。この効果はキャラクターのサブテキストを想像させつつも、モノローグとダンスの動きが並列になり、モノローグをも記号化させる。
この作品の不思議なところはキャラクターの背負うエピソードも車内広告のCMもよくわからないダンスの動きも並列化されていることだ。その並列化の構造が見事に地下鉄のあの満員の車内に重なるような気がする。

そのようなシーンブロックを積み重ねてうねりを出し、最後の日は「鳥人間」たちの未来まで突き抜け、CMザッピングの嵐の中を地下鉄は突き進み、
「暗闇」を突き進む。

「右手をご覧ください。暗闇でございます」というセリフは秀逸で、前回、胸に迫ったのだが、
今回観て、その理由を考えた。
変な言い方だが「透明感のある暗闇」だと思った。
それまでのシーンとの対比として、またそれまでのシーンのリアクションとしての「透明な暗闇」だと私は思った。
誤読かもしれんが。
だから、故郷喪失者の群はその喪失感を身体に刻んだまんま、「透明な暗闇」を突き進む有り様に私は感動したんだと思う。

難解でもなんでもない。
非常に劇的な作品である。

しかし、私は初演の方が好きでした。作品の完成度は再演の方が優れているであろうし、これはもう好みの範疇である。
なぜ、私が初演の方が好きだったか、理由を考える。

テキストは後半足されてあり、演出はほぼ初演のままであるが、私の感じた大きく違う点は二点ある。

まず、舞台美術が初演と違う。
パネルなどの立て込み、アクティングスペースの配置は同じであるが、劇場が違うのである。
舞台美術は劇場空間を含めてのものであると思うので、立て込みは同じでも大きく印象は違うのである。

舞台前面に額縁のような枠が施されている。
初演のウイングフィールドでは、枠と劇場サイズがほぼ同じなので、その枠が地下鉄の車窓に見えた(私の主観が大きいと思いますが)。

AI・HALLは広い。その枠の中より、枠自体が広いのである。
どう見えるかというと、テレビ画面という意味が強調される。
開演前の「エダニク」チームが映画のスクリーンを見ているというシチュエーションや、CMの多用など、演出もそのようにシフトチェンジしているような気がした。

このシフトチェンジにより、林君が語っていたように立体的になるが、初演に比べて、地下鉄が突き進む速度が減速したように感じた。
CMシーンも留まっていたので、ラスト、「暗闇」をザクザク突き進むイメージが今回は私にあまり感じられなかった。
主観ですよ。

あの劇空間が画面に見えてもよく、車窓に見えてもよく、そのバランスが大切だと思うが、初演は「車窓」に、再演は「画面」に傾いた印象を受けた。
「画面」 ってよくあるからさ、「車窓」ってかなりオリジナルだと思うんだよね。

もう一つは俳優である。
俳優は「安定」していた。当たり前である。短い期間での再演である。
良いことである。
私はこの作品において、俳優の「安定」が良いことか悪いことなのかわからない。
俳優が舞台上で自由になることとは一体どういうことなのだろう。
またややこしいことを書くが、自由にしては、自由にはならない。
不自由であるから俳優は舞台上では自由になるのだと思う。
私は、自分の現場では、俳優が自由になるために、不自由な制約を発言する。つまり、弁証法的な演出手法をとる。


ちょっとこの作品から離れて考える。
俳優の「安定」は作品において良いのか、悪いのか。
良いに決まっている。反対語の「不安定」を考えるとよい。「不安定」ならば、毎ステージの出来が違う。そんなことはあってはならない。エンゲキの神様が微笑んで素晴らしい舞台になることは、ある程度のキャリアならば経験したことがあるはずだ。そのことはさておき、だから、演出は最低レベルをあげるという一面もあるのだ。俳優の調子の良し悪しに左右されない舞台を作ろうと私は考えているところもある。
いやいや、「安定」は大切だ。

私が言いたかったことは「安定」ではなく、「安住」なのだ。

「俳優は安住してはいけない」のだ。

私たちの創造力は「半分しか飛ばない矢」なのだ。
その矢を的に当てるためにはどうすればよいか。的までの距離を二倍して、本当の的の、そのまた向こうの架空の的に目掛けて矢を射るのだ。
そうすれば「半分しか飛ばない矢」は的に当たる。
上記パラドックスは師匠の解である。

カテゴリーエラーをしてみると、「本物の的」が「本番の舞台」ならば、俳優も演出も、その的の先の「架空の的」を目指して、矢を射なければならない。

違う言い方をすれば「未完成の完成」である。

これらは桃園会の深津さんの演出方法の私なりの解釈である。

「半分しか飛ばない矢」の根拠は、つまり、完成させると「安心」「安住」するので、その表現は「止まる」のである。つまり、狙いに届かないのである。

我々は「安住」してはいけない。


さて、再演の「サブウェイ」が、「安定」したのか、「安住」したのか、私にはわからない。
私の意見は私だけの主観だからだ。


知り合いの俳優であるという理由で小笠原君のことだけ、甘えさせて書かせてもらうが、小笠原君はもっとこちらの常識を覆すような爆発力を持つ俳優であるはずだ。

ラスト付近の「北島三郎の祭」に至る展開はもっと狂って欲しい。
何度もブログで書くが、理性を捨てるのではなく、狂人は理性以外の全てを捨て去ったことを言うのだ。
何、やらされてるんだ。
狂おしく論理に固執し、舞台前面のスクリーンを破ってくれ。

林慎一郎の名前を東京に刻み込んで欲しい。
小笠原よ!小笠原よ!


すごくレベルの高い作品なんすよ。
でも、「エダニク」と「サブウェイ」は、東京で事件になって欲しいから。





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Last updated  2011.08.15 18:16:55



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