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カテゴリ:数学本
「零の発見 -数学の生いたち-」吉田洋一(岩波新書)
はしがきにもあるように本書は「数学に関する通俗的書物」として位置づけられる。非専門家にも読みやすい内容だった。主に歴史に関する記述が多く、いろいろ犬耳できた。二部構成で、前半が「零の発見」について、後半が「直線を切る」というタイトルで「連続」についての内容だった。後半の方が面白かったかも。 P12 「ただこれだけのことならば、この0に類似の記号を思いついて、ソロバンから位取り記数法に移るのはただ一歩の労に過ぎないではないか」という。実際「ソロバン」は位取り記数法そのもののように思える。そしてソロバンはかなり昔から世界各国に見られる(ことが本書に記載されていて知った)。ソロバンはあるのに0が発見されなかった歴史、それを辿るのが本書の内容であった。 P55 「インド記数法による筆算法が(註:ヨーロッパで)完成を見た(註:おそらく...ヨーロッパで広く認知された)」がだいたい十五世紀、その普及に印刷の発明、そして安価な紙の供給が関与したことがこの辺りで明らかになる。この時代、ヨーロッパではまだソロバンが使われている。日本では今でも使われているけれど、ヨーロッパではその後衰退する。その違いも面白い。 以下は「直線を切る」に入ってから...「直線を切る」では幾何(+ 代数?)が発展した歴史と、それが解析学の発展に繋がるために、どんな障壁があったのかということが記載されているのだろうと思う。 P95 フェニキアの文字がギリシアに輸入された紀元前九世紀頃、ギリシア人にとって文字は単なる記録の道具であった。「『書かれた言葉は生きた命ある言葉の単なる模像、単なる影法師に過ぎない』、生き生きした真の知識は、たがいに質問に答え、反駁にあい、誤解を正し...」。ギリシアらしい。でも実はこれが上記の障壁になったのかもしれないのだ。 P132 ピュタゴラスの定理、それがルート2、一般には不通約量を生みだしてしまった。これとの彼らの格闘劇が面白い。 P141 「ゼノンの逆理によって、かような素朴な(註:ピュタゴラス学派の)幾何学の概念はここに純化の過程に入り、後にいたって、これがユークリッドの壮麗な幾何学の建設される誘因となったのである。」この部分で紹介される「ゼノンの逆理」についての説明は、これまでに理解していたのとは違うステージの理解を与えてくれた。一読の価値あり。 P157 「(註:内接)正方形が円の面積より少し小さいところまでは順調に発達をつづけていくとして、意地悪く円と等面積になる状態を飛びこえて、一挙に円よりも少し大きい正方形になってしまうということがありえはしないか」という議論。その議論が「意地悪い」と思うけど、これが「連続」とは何かを考えるきっかけになり得るというのが面白い。 P166 デデキントによる「連続性」の定義。直線を切断したとき、片方には端があり、もう片方には端がない。両方に端があるということも両方に端がないということもない。両方に端があるのが駄目なのは分かったけど... P174 曲線の長さの定義、曲面の面積の定義と関連して、円柱の側面が表面積をもたなくなる話。 P179 「与えられた円と等しい面積の正方形は定木とコンパスとだけでは作図できない」ことの証明(リンデマン)。πが超越数であること、すなわち係数が有理数であるようないかなる代数方程式の解になり得ないこととして説明される。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013年07月28日 14時58分44秒
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