テーマ:プロ野球全般。(13397)
カテゴリ:野球
小瀬ショックが未だに抜けない。
「生まれ変わってもまた一緒に野球をやろう」 大引のブログに載せられたメッセージ、 小瀬には届いただろうか? チームも、我々ファンも、早く前に進まなくては。 ☆☆☆ さァ、本日のネタを始めよう。 今回登場するのは、2人のプロ野球選手。 広永益隆(南海・ダイエー⇒ヤクルト⇒オリックス) 梅田邦三(巨人⇒西鉄・太平洋クラブ⇒中日⇒日本ハム) 共に数々の球団を渡り歩いたジャーニーマン。 しかし、そのキャリアは非常に対照的であった。 まず、広永。 身長172cmと小柄だが、思い切りの良いスイングで、 徳島商時代からスラッガーとして鳴らしていた。 そんな彼の本領……、それが“肩書き本塁打”である。 ▼プロ初打席本塁打(1989年4月8日) ▼日本プロ野球平成第1号(同上) ▼日本プロ野球通算6万号(1990年9月26日) ▼パ・リーグ通算3万号(1992年6月5日) かつて、長嶋一茂がプロ初打席本塁打、 セ・リーグ通算3万号を打ったが、その比ではない。 平成第1号なんて、 年号が変わらないと打てないんだぞ(≧Д≦) しかも1998年7月7日、オリックス時代には……。 ロッテ、屈辱の日本記録17連敗を決めた一撃。 代打満塁サヨナラ本塁打(史上11人目)! しかも、両リーグ代打サヨナラ本塁打は史上2人目! 実は広永、通算34本塁打。 年間200打席以上立ったのも、 1990年(217打席)の1年だけだった。 成績だけを見ると、決して超一流ではない。それでも。 ……巡り合わせなんだろうねェ。 一方、梅田である。 地味! というか、いろいろ薄い! 始まりはドラフト会議だった。 時は1968年。入団したのが話題豊富な巨人だし、 そもそも9位という順位も低かった。 しかも、この年はプロ野球史上最高の豊作。 梅田に注目が集まることはなかった。 1年目は一軍出場なし。 2年目は10試合に出場するも、打席数は1。 そして、オフには早くもトレード。 移った先は“黒い霧事件”の余波に苦しむ西鉄だった。 3年目、77試合。 4年目、51試合。 そして、5年目のブレイクを迎える。 太平洋クラブ元年、遂にレギュラー奪取! この年、118試合に出場し、打率.247。 何よりも出色だったのは、ショートの守備だ。 当時の資料を読むと、その巧さは群を抜いていたらしい。 更にこの年は日本プロ野球通算3万号も記録した。 ところが。 ダイヤモンドグラブ賞は阪急の大橋穣に。 「太平洋クラブという球団が地味すぎて、 記者の誰も梅田の守備を見ていなかった」 なァ~んて噂が、実しやかに囁かれた。 しかも。 3万号の記念本塁打も、1976年に集計ミスが発覚。 29999号に訂正されたのだった(TДT) ……広永とは大違いだァァァァァ! 因みに、梅田は引退後、京都でスポーツ用品店を 経営しながら、子供たちに野球を教えている。 中には、プロ入りした教え子も。 木元邦之(元オリックス)や近澤昌志(元楽天)などがそうだ。 Please crick here !! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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