テーマ:プロ野球全般。(13397)
カテゴリ:野球
「不眠不休とは、まさにこのことか!」
そんな思いで乗り切った数日だった。 経験が浅い、会話が成立しない、言い訳が多い。 そんな男の尻拭いを3人で請け負ったわけだが……。 次々と発覚する理解不能な事態に、 幾千のツッコミを入れただろう。 ……おかげで、MPがなくなったよ。 MPがない。これは我々3人の流行語となった。 最終日のことである。 「ずっと聞いていてわからなかったんですけど、 MPって何のことですか?」 と、その男が質問してきたのである。 「え? マジックポイントのことだよ」 「キャプテン翼風だと“ガッツがたりない”ね」 不思議そうな顔をする男。 「ドラクエはやらんわけ?」 「あ、ドラクエですか?」 「そう、MPってあっただろう?」 考え込む男。そして、次に出て来た言葉が……。 「ドラクエは5までしかやったことがないんで」 十分だよ! こっちなんて3が最後だよ! って、何もかもがこんな調子だったんですわ。 我々の苦労が少しはわかってもらえただろうか。 ☆☆☆ さァ、本題に入ろう。 今回は、ふと思い出した角三男の話を。 多くの人々にとって、角といえば……。 ▽左の変則投手で、鹿取とセット。 ▽1978年新人王、1981年最優秀救援投手。 ▽ヤクルトの角富士夫とは無関係。 ▽三男坊だから「三男」という名前⇒何度か改名。 などなど、主に巨人のイメージが強いのではないか。 または「野村門下生」と答える人もいるかもしれない。 しかし、一部パ・リーグファンは……。 「あァ、日本ハムにもいたよね」 そう言ってくれるに違いない。 「あァ、ブライアントに東京ドームの 天井スピーカー直撃弾を打たれた角ね」と。 実は角、1989年のシーズン途中に移籍したのだが、 これが、まァ、異例の出来事でね。 1989年といえば、近鉄とオリックスと西武が 歴史的デッドヒートを繰り広げた年。 しかし、前半はまだ近鉄が下位に沈み、 日本ハムが3位にいた。 81年以来の優勝へ。左腕補強に乗り出すハム。 目を付けたのは、巨人で僅か登板1試合と、 くすぶっていた33歳の角だった。 獲得を打診したのは、トレード期限(当時)の2日前。 巨人としては、あまりにも急な話である。 しかも、日本ハムには実績のある角に見合うだけの 交換相手もおらず、金銭も用意できなかった。 そこで。 日本ハムが取った手段は“ゴリ押し”。 近藤貞夫監督は「譲ってくれ」と、 藤田元司監督にひたすら拝み倒したのだった。 意外にも、商談はあっさりと成立した。 流石は巨人、と言うべきか。 厚いピッチングスタッフ、チームも首位。 新天地でチャンスを与えた方が角のためと、 日本ハムの提案に、乗った。 角にトレードが伝えられたのは、29日。 球団には「残留も認める」と異例の選択権を与えられた。 悩んだ角。しかし、こう考えることにした。 「本拠地は、巨人と同じ東京ドーム。 チームとユニホームが変わるだけだ」 こうして30日、日本ハム・角三男が誕生した。 翌日には即一軍登録。あまりにも急だったので、 大島康徳のユニホームを譲ってもらい、 背番号と名前を縫い付けた。 更に、角は驚いた。 何かというと、近藤監督の起用法である。 当時、423試合連続リリーフという 日本記録更新中の男に、なんと先発を言い渡したのだ。 結局、この年は10試合に先発して2完投。 勝ち星は3勝と伸びなかったが、 期待以上の働きを見せたことには違いなかった。 さて、このトレード、2つの背景を知っていると、 なお興味深いエピソードとなる。 1つは、大沢啓二球団常務の存在だ。 角の獲得にGOサインを出した本人。 実は日本ハムの監督時代、こんな武勇伝を残している。 それは、1980年のことである。 当時、絶対的な守護神を欲していた大沢は、 広島を2年連続日本一に導いた江夏に目を付けた。 しかし、まともに行っては獲得できるはずがない。 そこで。 自ら広島まで出向き、古葉竹識監督に拝み倒した。 移動の新幹線、監督である自分が動いたことが 万が一にも他球団に知れたらマズイと、 ハンカチで顔を覆うなど、必死に隠密行動したという。 ……親分、逆に怪しいよって話。 まァ、この時は広島にゴネられ、 エースの高橋直樹を差し出すこととなり、 角のように無償での獲得とはならなかったが。 で、もう1つの背景が近藤監督の采配である。 「先発投手が投げる101球目と、 リリーフの投げる1球目、どっちが威力がある?」 という理論から、投手分業制を一早く取り入れた近藤。 そんな彼が、リリーフのスペシャリストに先発を任せるとは。 因みに、ブライアントの天井スピーカー直撃弾も、 先発・角があったからこそ生まれた伝説なのである。 Please crick here !! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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