カテゴリ:創作
極上の獲物がいる。彼はその確信に突き動かされ、歩き続ける。不安など感じてはいない。自分の先にそれがあるのは、当然のことなのだから。 彼は、遠くから聞こえる悲鳴を、敏感に感じていた。果実は着々と熟れている。後は、自分が歩けばいい。その歓喜を捕まえるために。 彼の飢えの限界は、極限までに迫っていた。 ダラダラと続く山道を越え、ようやくコテージに着いた頃には、月も隠れる曇り空になっていた。懐中電灯を頼りに慎重に歩いてきたので、だいぶ時間がかかったはずだ。電気はついていない。中に残った奴は、もう眠っているのだろうか。 「彼、戻ってないみたいね……」 隣で青ざめている彼女は、途中で別れたあいつの心配をしているようだ。待ち合わせ時間も場所も話さなかったのは失敗だったが、あの場面では仕方がないという気もする。普段ならば帰ってくるまで放っておくところだが、状況が状況だ。探しに行った方が良い。 あの後、湖岸を歩き始めてから程なくして服は見付かった。妙なことに、風で吹き散らされたにしてはまとまっていて、まるで何者かがそこに投げ捨てたかのようだった。その時点で若干の不審は抱いていたが、そんなこともあると思い、深く考えはしなかった。だが今思うと、その時点で思考を放棄していたのかもしれない。迫り来る恐ろしい“何か”から逃れるために、あえて考えないようにしていたのだろう。そして、彼女を見つけたとき、いよいよ逃げることは出来なくなってしまった。 脚に引っかき傷のようなものがあるのは、まだ良かった。おそらく、流されている間に木か何かで引っかいたのだろう。そう思えた。 だが、彼女の首の骨は折れていた。 湖は波があるといってもそれは風のせいで、たいしたものではない。人を一人流す程度は出来るだろうが、首の骨が折れるほどの衝撃を引き起こすことが出来るとはどうしても思えない。しかし、現実彼女の頭は不自然に折れ曲がり、首からは骨らしき出っ張りが飛び出している。溺れたときに、湖底にでもぶつけたのだろうか。それにしては、頭に外傷はない。では、何故首の骨が折れたのだろうか。いや、俺は既に分かっているのだ。その恐ろしい事実から、目を背けているだけなのだ。 死んだ彼女の首には、大きな手の形が残されていた。 青々と残るその跡は、俺たちではない“何者か”の存在を主張するには十分すぎるものだった。俺たちは死骸を葬ることもせず、急いでその場を離れ、このコテージに戻ってきたのだ。悪いことをしたとは思うが、身の安全には代えられない。ドアを閉め、掛け金をかけ、一息つく。 「……あの跡は、なんだったのかしら」 彼女はろうそくに火をともしながら、震える声で呟いた。 「俺たちの中には、あんな大きな手の奴はいない」 足の震えが止まらない彼女を椅子に座らせてから、暖炉に備え付けてあった火掻き棒を手に取る。少し重いし短いが、何もないよりはマシだ。使う機会はないだろうが、お守り代わりに持っておいても損はない。 「おかしいな。どこに行ったんだ?」 コテージには人の気配がない。こんなときにどこをほっつき歩いているのだ。途中で別れたあいつを探す。車を持ってくる。そして、ふもとへ行って電話だ。やることはたくさんあるというのに。 「何でこんなことになっちゃったんだろう。楽しいキャンプのはずだったのに……」 苛立ちで頭を掻いていた俺の耳に、しゃくり上げる声が聞こえた。仕方がない。いくらしっかりしているとはいえ、まだ若い女の子なのだ。人が一人死んでいるこの状況で、パニックにならないほうが不自然だ。 そうなのだ。この子は、昔からこうなのだ。いつも気丈に振舞って、だけど本当は恐がりで、いつも無理をしているのだ。誰もいないところで、一人泣いている姿を幾度か見たことがある。辛いことがあっても、人に言わないし、悟らせない。 そんな彼女が、今こうして泣いているのだ。 頭から熱が消えていく。これから自分が何をするべきか、はっきりと分かる。そうだ。冷静になれ。落ち着いて物事に対処すれば、必ず道は見えてくるはずだ。まずは、警察に連絡をしよう。あいつらを探すのは、その後だ。 「ちょっと、車を持ってくる。ここで待っていてくれ」 言い終わるほうが早かっただろうか、窓ガラスが音を立てて割れた。驚き、俺も彼女も同時に窓に目を移す。ごろごろと音を立て転がる、球状の物体。床を赤黒く彩りながら、俺の足元に転がってくる物体。 人間の頭。 一度冷えた頭に、また熱が上ってくる。冷静に。冷静に。落ち着くんだ。考えろ。彼女が金切り声をあげる。うるさい静かにしろ。こっちだって必死なんだ。泣きじゃくる彼女を一瞥し、思考を続ける。何故こんなものがここにある。どうしてこれが窓ガラスを破ってくる。冷静に。冷静に。何故こんなものがここに。馬鹿。思考が回っているぞ。そうだ。誰がやったんだ? 殺人者は、 今、外にいる。 「逃げろ!」 大声で叫ぶと同時に、ドアに斧が突き立てられた。 掛け金を打ち壊し、ドアを破る。中には男女が一人ずつ。シミュレーションの通りだ。何の問題もない。斧を握る手に力を込める。どうやって恐怖を与えてやろうか。考えるだけで心が沸き立ってくる。 女は悲鳴をあげ、座り込む。男はその前に立ちはだかり、鉄の棒を構えている。目を見開き、恐怖で顔を歪ませ、なにしてるんだ、早く逃げろ、と半ば悲鳴のように男は叫んだ。それに答えるように、女は窓へとはいずるが、所詮女の足だ。そう遠くへは逃げられまい。こちらは後でゆっくり調理することにして、標的を男に定めた。 斧を握り、思い切り振り上げ、おろす。しかし、男は素早く横にかわし、鉄の棒を私の脇腹に叩き込んだ。骨が軋む感覚を味わい、全身に痺れが行き渡る。痛みに体を揺らす私に、ここぞとばかりに打撃を加えようとするが、そうはいかない。肩口に飛んできた激痛を堪え、鉄棒を握る。私がまだ動けることに驚きを隠せない彼は、サルのように鉄棒をぐいぐい引っ張った。かなり力はあるようだが、それでも私にとっては微々たるものだ。思い切り引き、そのまま男を壁に叩きつける。 げほ、と息を吐き、壁にもたれかかるようにずり落ちた。一瞬意識が飛んだのだろう、朦朧としながら顔を上げたが、目の焦点が合うが早いか、すぐにドアから逃げ出そうとした。背を向ける彼に一足飛びで追いつき、襟の部分を掴み、もう一度引き倒す。勢いのまま頭を打ちつけ、うめき声をもらす男に、私の胸は高鳴っていく。もっと、もっとだ。 仰向けに倒れる男の脚を踏みつけ、思い切り体重をかける。小気味良い、太い木の枝を折るような音が響いた。苦痛にのた打ち回る男の姿。涙を目に浮かべながら、愛しい人の名を呼ぶ。死にたくない、と嗚咽交じりに叫ぶ。 最高だ。 胸を脚で押さえつける。ぎゅっ、と息を漏らす男の顔に、じわじわと手を近づける。首を横に振り助けを求めるが、聞く耳を持たない。化け物と、ひときわ大きな声で叫んだ。ああ、きっとそうなのだ。私は、他人の生き血をすすり、自らの欲望を充足させる、化け物なのだ。 手が顔に触れる。男は必死の抵抗で、私の指に噛み付いた。痛みは感じる。しかし、抑えきれぬ興奮が痛みを無くす。私は、そのまま手を少しずつ地面へと近づけていった。男の叫びが大きくなる。ひしゃげていく自分の頭に手をやり、私の手をどかそうとするが、びくともしない。鼻から血を吹き出し、目は大きく飛び出て、血涙を流している。ジタバタともがいても、私の体はびくともしない。ゆっくりと、ゆっくりと、万力のような力を込めて、彼の頭を押し潰していく。 そして、彼の叫びが一瞬極限まで大きくなった瞬間、卵を潰すかのごとく簡単に、当たり前のように頭は砕け散った。 床に広がる花のような模様が、さらに私の興奮を掻き立てる。びくびくと痙攣する死骸に、恍惚すら覚える。ああ、素晴らしい玩具だ。 あと一人……。斧を拾い、私はゆっくりと足跡の残る森へと入っていった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Jun 5, 2007 09:16:20 PM
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