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カテゴリ:ひとりごと
義弘vs家康
最終的には屈した形ではあるけども、徳川家康に対して、義弘はいつも痛い目に遭わせてやってると思う。 朝鮮出兵では殿を務め、10万の明軍に対して、1万5千という数的不利な状況でありながら、明軍を退け、3万以上の首級を獲り、「鬼石曼子(おにしまづ)」と恐れさせたのが義弘。しかし、家康は島津に報償を与えることを拒否するというケチな性分を見せた。結局前田利家が渋る家康の反対を押し切り、4万石の加増をしたが、おそらくこの時から義弘は家康に対して不信感を持っていたのではないかと思われる。 関ヶ原後、家康はいったんは毛利輝元、加藤清正、黒田長政らに島津討伐を命じているが、これに対して島津は完全に迎え撃つ態勢を整えている。秀吉の九州討伐時は本格的な戦闘に入る前に降伏したことからしても、家康のことはナメてるというか、よっぽど気に食わなかったんだろーなというリスペクトのなさを感じる。実際、家康の島津討伐は実現してないのだけど、これも義弘の想定内だったんじゃないかと。あのケチな家康が本当にやるわきゃないとタカを括ってたんじゃないかと思える。 しかも面白いのはその後で、再三の徳川方からの呼びかけを完全シカト。当初は唐津城主寺沢広高を取り次ぎ役にしていたものの、島津のシカトが続くため、ついに井伊直政、本多正信ら、徳川の重臣が説得に乗り出す。家康の常套手段ともいうべき、義久、家久に対しては罪は問わないという懐柔策を行っているが、それすらシカト。その間に義弘は領内の外城の整備を着々と進めてて、このあからさまな反抗が面白すぎる。 結局関ヶ原から約2年後の慶長7年に家康から直に領地の安堵を約束する書状が届く。それを受けて、家久(義弘の嫡男)がようやく上洛し、家康に臣下としての挨拶を果たしてるのだけど、この時も実は義久と義弘は「家康は信用ならない」とゆって家久の上洛に反対してたというから筋金入り。いいかげんに折れたら?という仲良しの上杉景勝からの勧めもあったよーだけど、その景勝も関ヶ原後に大幅に領地を削られてるし、小西行長や宇喜多秀家のように、口約束を信じて潰された大名を見るにつけ、家康なんか信じないという義弘の頑なさは理解できる。行長は特に武将としても優れた人物だったし、ミスター戦下手に却下された夜襲案にも賛同してくれたそーなので、義弘には特別な思いがあったんじゃないかと勝手に想像。 面白いのは、秀吉は義久を無視して義弘にすり寄ることで兄弟の関係を悪くしようとし、家康は逆に義久を厚遇して義弘との関係悪化を画策してる。実際、この兄弟の仲はあまり良くなかったといわれるんだけど、そういう工作に対してはその手に乗るかという感じなのがいいんだよね。 結局、義弘は西軍の将としては数少ない領土安堵を勝ち取ったわけで、家康には完勝といっていいと思う。島津はその後も幕府の仮想敵国であり続けたし、幕府が薩摩に送り込んだ間者はひとりも帰ってこなかったという有名な逸話もあるほど。幕府が倒れた時、家康はあの世で「やはり島津か」と苦い顔をしたであろうと思いますねえ。 補強費はちゃんとあるという無能低脳のウソに騙され続けてるどっかのミジンコ監督に義弘の爪の垢を煎じて飲ませたいものです。 よろしければポチっとお願いします♪ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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