|
カテゴリ:ひとりごと
「両度の使者、祝着に候。然らば、薩摩、大隅、諸県の儀、このあいだあい抱え候分、相違あるまじく候。少将こと、その跡あい譲られることに候あいだ、別儀あるまじく候。兵庫頭儀は、龍伯に等閑なく候あいだ、別儀あるまじく候。日本国大小神祇、別して八幡大菩薩、毛頭表裏あるべからざるものなり」。
これが慶長7年に届いた、家康からの書簡。要するに領土は安堵するし、家久(少将)の跡目を認めるし、兵庫頭(義弘)と龍伯(義久)も罪に問わない。神に誓って嘘はつかないよ、という文。どう見たって義弘の完全勝利。 徳川幕府が始まって、戦のない世の中になったわけだけど他藩と違い、薩摩はずーっと武士=戦士を引っ張ってきたと思う。つーか関ヶ原を引きずってきたというべきか。 関ヶ原の生き残りである老人に話を聞こうと、若い島津藩士たちが二十数里を歩いて訪ねてくるという短編小説がある(津本さんの小説だったと思うんだけど失念)。老人は喜んでこれを迎えて、衣服を改めて広間に若者たちを集める。しかし、いざ話そうとすると、「関ヶ原は」と言ったきり、絶句して、はらはらと涙をこぼすのみ。若侍たちはその姿を見て、「よく分かり申した。関ヶ原んこつはかまえて肝に銘じ申す」と礼を述べ、再び、二十数里を歩いて帰って行った、という話。薩摩にとって関ヶ原ってそういう意味を持つものみたい。 半農半士という独特のスタイルを持つ郷士を多く抱えていた薩摩は江戸時代でも、領民中の3割以上が士族で、それは他国の5倍の割合といわれる。その上、郷中という士族の子弟教育システムが完備していて、学問だけでなく武芸もきっちり叩き込む。しかも島津藩お留流(藩公認の剣法)は示現流という一刀必殺の殺人剣(示現流については、また別の機会に語らせてください)。こんな島津だから太平の世が三百年続いても、戦国時代の気質を忘れなかったんだろーと。幕末には時代錯誤な戦国気質が、逆に時代を先取りしてたというのが面白くて仕方ない。 この基礎を完成させたのは義弘の息子、家久だけど、その家久に対して、薩摩武士は華美、文弱になってはならんと、言い続けたのは義弘。「いつか関ヶ原の恨みを返す!」と三百年粘ってたのが島津なので、要するに義弘の遺志を実現したよーなもの。す、凄すぎる。 たった10年で、クラブの歴史も存在意義もさっぱり忘れてやがる、どっかの斜陽チームには島津を見習えとゆってやりたいものです。 よろしければポチっとお願いします♪ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010年10月14日 20時46分44秒
コメント(0) | コメントを書く
[ひとりごと] カテゴリの最新記事
|