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カテゴリ:歴史・現代考察
中華武侠がなぜ、自分勝手なDQNかという事を考えてみた。
ちなみに、どのくらいダメかを解釈すると 戦う前は大口をたたき、戦った後に相手が無実だとわかると悪態をつき戦った相手の責任を見つけて主張する、戦った相手が強かったり・格上だとわかると掌を返したように褒め称える・・・みたいな生き方をしてる訳です。 (北方謙三さんが「水滸伝」や「楊令伝」で自分の想いに殉じる恰好いい武侠を描いていますが、あれは多分に日本的侠客の雰囲気を混ぜ込んでいるため(北方作品自体が、同じタイプの漢を描いているので志方ないのですが)ですわ。) その理由として思いついたのが、 その時代において正義が相対的なものとして存在しないためではないかと思う訳です。 どういう事かというと、 「皇帝=正義」 な訳です。 ですから、水滸伝においても最後は皇帝に従う訳です。 (中国史観で言うと亡国の皇帝以外は、すべて正しい人物なんですね。) 唐代以前ですと若干話が変わって、封建社会がまだ生き残っていたので、皇帝以外の正義の判断階層たる貴族階級があった訳です。 これが宋代以降となると封建社会が崩壊し、貴族階級が一掃されます。宋代以後の特権階級たる知識人階級は貴族階級のような存在でありながら、その存在基盤が皇帝の任命によりものとすべてが皇帝一極化になったため、 皇帝=正義 という絶対的な方程式が成立する訳です。 儒教の2大派閥である、陽明学と朱子学が成立したのが宋代以後というのも、このあたりに根があるのかも知れません。 ちょっと断線しましたが、正義が相対的に存在しないため、自分の行動が絶対的に正義だと主張することに躊躇しているため、前述のダメな行動になるのではないかと思う訳です。 面白いのが、元代及び清代だけは絶対的な正義が、皇帝以外に存在することです。 清代でいう 「抗清復明」 の民族自決主義の思想です。 当時の皇帝に刃向うことを正義する考え方が存在し、それが武侠たちのよりどころになったため、その行動に一貫性が出ているのはないかと思っているところです。 この時代の武侠の拠り所が秘密結社になっていったのは「抗清復明」の思想を拠り所としたためじゃないかと思っています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013.01.21 22:24:00
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