727.海軍撃墜王列伝(67)磯崎千利少尉は初陣以来五年目で撃墜王となった
【磯崎千利(いそざき・ちとし)大尉・12機】(ウツボ)磯崎千利は大正二年一月十二日生まれ。愛媛県松山市出身。中学卒業後、海兵団(四等水兵)を経て、昭和七年十月、第一九期操縦練習生。(カモメ)操縦練習生の同期生に半田亘理(はんだ・わたり)中尉(福岡・第一九期操縦練習生・空母「龍驤」・日中戦争・空母「加賀」・上海戦線・第一五航空隊・空母「蒼龍」・空母「飛龍」・台南航空隊・肺結核・終戦・昭和二十三年十月二十一日死去・享年三十七歳・撃墜数一三機)がいます。(ウツボ)昭和八年三月、第一九期操縦練習生修了、教員となる。空母「龍驤」飛行隊配属。霞ケ浦航空隊友部分遣隊附教官。(カモメ)磯崎千利二等航空兵曹は、支那事変勃発後の昭和十二年十月、空母「加賀」飛行隊配属。(ウツボ)昭和十四年末、磯崎千利一等航空兵曹は、第一二航空隊配属。桂林攻撃に参加するも、その後大きな空戦になることはなかった。(カモメ)昭和十五年十一月、磯崎千利一等航空兵曹は、航空兵曹長に進級。昭和十六年十月、台南航空隊転属。(ウツボ)昭和十六年十二月八日、太平洋戦争開戦後、磯崎千利飛行兵曹長は、南方に進出。昭和十七年四月内地帰還。大村航空隊附。(カモメ)昭和十八年四月、磯崎千利飛行兵曹長は、少尉に任官。五月十四日、ラバウルの第二五一航空隊(ラバウル)配属。(ウツボ)六月十六日、磯崎千利少尉は、ルッセル島(ソロモン諸島中央部)上空でアメリカ軍とニュージーランド軍の混成戦闘機編隊と空戦に入り、初撃墜を記録。(カモメ)以後、磯崎千利少尉は、第二〇四航空隊、第二〇一航空隊の分隊長としてブイン、ラバウル航空戦において、<零戦・三菱零式艦上戦闘機二一型>で戦果を挙げ続け、一二機の撃墜数を記録した。磯崎千利少尉は初陣以来五年目で撃墜王となったのです。(ウツボ)昭和十九年三月、磯崎千利中尉は、内地に帰還し、第三〇二航空隊(厚木)の第一飛行隊<三菱「雷電」局地戦闘機>第二分隊長として防空任務に就いた。(カモメ)その後、昭和十九年九月、第二一〇航空隊(愛知県明治村)第四分隊長(徳島分遣隊)として錬成教育に当たりました。(ウツボ)昭和二十年五月、磯崎千利中尉は、第三四三航空隊戦闘第三〇一飛行隊分隊長。装備機は<川西・紫電改・局地戦闘機>。だが、この時から終戦まで空中戦を行う機会はほとんどなかった。(カモメ)昭和二十年八月十五日終戦。大尉。終戦までの総撃墜数は一二機以上。磯崎千利大尉は終戦までの十三年間に、四〇〇〇時間以上の飛行時間を記録していますね。(ウツボ)そうだね。昭和二十年八月十七日、磯崎千利大尉は、皇統護持作戦の有志に名を連ねるが、天皇制存続が決定され、皇統護持作戦は自然消滅した。(カモメ)磯崎千利大尉は、謙虚で礼儀正しく、第三四三航空隊の会と零戦搭乗員会等では尊敬を集めていたということです。(ウツボ)戦後は、愛媛県松山市で小さなうどん店を営んでいた。平成五年六月二十日死去。享年八十歳。【角田和男(つのだ・かずお)中尉・12機】(カモメ)角田和男は、大正七年十月十一日生まれ。千葉県安房郡豊田村出身。農家の次男。大正十三年、父が死亡し、家は貧しかったのです。(ウツボ)昭和八年、高等小学校二年四の時、海軍予科練習生を受験したが、不合格だった。実家の農業を手伝いながら翌年の受験に臨んだ。(カモメ)昭和九年六月、角田和男は、第五期乙種飛行予科練習生に合格、横須賀航空隊予科練習部で訓練を受ける。入隊後に四等航空兵。その後、三等航空兵、二等航空兵に進級。