10.山本長官の死(10) 祖父は夫婦枕を並べて戦死した
(ウツボ)最後に山本五十六の原点の話をしよう。「将軍・提督人物史伝」(光人社)によると、五十六は長岡藩士、高野貞吉の末っ子として明治17年4月に生まれた。貞吉が56歳の時に生まれた子だから、「五十六」(いそろく)と命名した。(カモメ)祖父の秀右衛門は長岡藩の軍事総督・河井継之介の部下として、戊辰の役で山県有朋の大軍と戦い、78歳の高齢ながら、銃をとって奮戦した。(ウツボ)敵10数人を撃ちとって壮烈な戦死を遂げた、とあるね。(カモメ)当時の78歳だよ。現代でも78歳といえば、隠居する年だよ。驚くことに、祖母も夫の秀右衛門とともに銃を持って戦い、夫婦枕を並べて戦死したという勇壮な史実が残っている。(ウツボ)まあ、長岡藩の命運を決する戦いだから。当時は意識的に、それこそ特攻精神だった訳ですね。そのような血を受けた山本も軍人になるべくしてなった訳だね。(カモメ)その高野五十六は、大正5年に海軍少佐の時に、山本姓を名乗るようになった。長岡藩の旧藩主・牧野忠篤にみこまれて、名家・山本帯刀家の養子になり、山本姓を名乗るようになった。(ウツボ)山本五十六の誕生だ。この時すでに左手には指は3本しかなかった。(カモメ)そう、山本が指を吹き飛ばされたのは、日露戦争の明治38年、日本海海戦の時だね。東郷平八郎司令長官の連合艦隊の一員として日本海海戦に初陣した。(ウツボ)少尉候補生として軍艦日進に乗組んでいた。明治38年5月27日、山本は、「敵艦見ゆ」の報告に「嗚呼、歓喜」と胸を躍らせている。やがて勝敗が決まり、夕陽が西に傾き、戦闘も終わりかけた頃、一発の巨弾が目の前の砲塔に命中した。この本によると、その時のことを山本は次のように記している。「大風に吹き飛ばされし如き心地して思わず2,3歩よろめけば、首に掛けたる記録版は吹き飛んで影を失い、左手2本指はポッキリと折れて皮をもって僅かにつながる」と。(カモメ)山本五十六は若い時から海軍軍人として勇敢な海軍魂を持っていたんだね。それを生涯を貫いた。まさに、軍神だった。(ウツボ)君が「軍神」と認定したのには異議は申し立てないが、見方によってはそうとも言えない説もある。(カモメ)日本帝国海軍の歴史上の、軍神の中に、山元五十六元帥は入っている。(ウツボ)昭和15年7月22日、近衛文麿が米内光政内閣の後を継いで内閣を組閣した。おそらく、昭和16年だと思うが、近衛と山本が密談した。その時山本が近衛の「米国と戦争になった場合海軍は米国に勝つことが出来るか?」との質問に答えて言った有名な言葉が有る。(カモメ)山本の返答は「半年や1年程度は存分に暴れて見せますが、それから先はどうなるか分かりません」だろう。誰もが知っている。その通りになった。(ウツボ)そうだ。このことについて、「名将・愚将、大逆転の太平洋戦史」(講談社新書)によると、最後の海軍大将、井上成美の戦後の述懐として、その時の山本の返答として「日本は必ず敗れる。その時、軍人は戦争で戦死するのは当然だ。だが、皇帝や王様がいない米国が、天皇をどう取り扱うか、予断を許さない。総理はそれでも日米戦争を始めるのか」と言わなかったか。返答としてあいまいな表現に終始した山本の大罪は許しがたい。このように井上は言っている。(カモメ)それなら、井上は、当時どうしたんだろう。山本、米内、井上の反戦トリオではなかったのか。井上自身、人を通じて同じ事を、総理に上申する機会もあったはずだがね。あとから、ああだ、こうだと批判する事はみやすいんだよ。井上でなくても、そう思っていた人は日本に多くいたんじゃないか。(ウツボ)それはそうだが、だが井上の言っている事も、もっともでね。これは井上ではなく、山本自身にスポットをあてた問題として捉えなければいけない。(カモメ)山本にも過誤はある。だが、あとから、もしもこうだったら、ああしていたら、ということは、戦争には無数にある訳でね。それを言うなら、もうSFの世界になってしまう。(ウツボ)SFの世界か。そこまで飛躍してもらっても困るのだけど。(カモメ)いや、いや、SFの戦史なら、いくらでも話すことができますよ。日本が大勝利を得てアメリカを占領して、山元五十六が裁判長となってワシントン裁判でアメリカの大統領やマッカーサーを戦犯で裁くというようにね。タイトルは、それこそ「名将・愚将、大逆転の太平洋戦史」でね。つまりなんでも言えるってことじゃないですか。 (ウツボ)うん。まあ、そういう事実もあるということなんだ。俺が言いたいのは。(カモメ)この話は、これ位にしましょう。次回からは「阿南陸軍大臣の自刃」なので、よろしくお願いいたします。(ウツボ)こちらこそ。(「山本長官の死」は終りです。次回からは「阿南陸軍大臣の自刃」です)