テーマ:意外な戦記を語る(748)
カテゴリ:陸軍大学校首席列伝
(ウツボ)明治二十二年十二月、士官候補生として、武藤信義は福岡の歩兵第二四連隊に配属された。明治二十五年七月陸軍士官学校卒業(三期)。卒業成績は百三十七名中三番だった。
(カモメ)明治三十二年十二月武藤信義大尉は陸軍大学校(一三期)を首席で卒業して、恩賜の軍刀を拝受しました。 (ウツボ)明治三十三年九月参謀本部第一部勤務の武藤大尉は、ウラジオとシベリアのロシア軍の動静を調査するよう命ぜられた。明治三十六年八月十一日帰国。参謀本部第一部作戦課勤務。 (カモメ)明治三十七年二月五日、参謀本部部員の武藤大尉は近衛師団参謀を命ぜられました。日露戦争では鴨緑江軍(第一軍)の架橋地点や渡河点決定の偵察を近衛師団情報・兵站参謀(少佐)として行い活躍しました。 (ウツボ)この日露戦争で武藤少佐は功三級金鵄勲章を賜った。少佐で功三級は破格のことで、シベリア以来、オデッサからの情報活動も含んだ論功だった。 (カモメ)明治三十九年一月参謀本部部員、ロシア公使館附武官補佐官。明治四十年中佐。明治四十一年十二月参謀本部欧米課長。明治四十三年参謀本部第二部(情報)第四課長兼陸大教官。 (ウツボ)明治四十四年一月大佐。大正元年十二月近衛歩兵第四連隊長。大正四年四月参謀本部第一部第二(作戦)課長。 (カモメ)この頃、まだ元老・山縣有朋がニラミを利かせていて長州閥全盛の時代だったが、武藤大佐は先輩の宇都宮太郎(うつのみや・たろう)中将(佐賀・陸士七・陸大六恩賜・英国大使館附武官・大佐・陸軍大学校幹事・歩兵第一連隊長・参謀本部第二部長・少将・中将・第七師団長・第四師団長・朝鮮軍司令官・大将・軍事参議官・死去・勲一等・功三級)とともに佐賀出身の有望株として頭角を現し始めていたのです。 (ウツボ)大正五年五月少将、歩兵第二三旅団長。旅団司令部にいるときの武藤少将は、あいかわらずの沈黙で、終日黙々と本を読んでいたという。 (カモメ)ある時、ある中隊の射撃場で、中隊長があまりに両肘の位置をやかましく言っていた。武藤旅団長は、じっと見ていただけで、やはり無言で帰っていった。 (ウツボ)随行していた土肥少佐が、「今の教育は、楽であるべき射撃姿勢を、かえって窮屈にしているように思われますが」と後で尋ねると、武藤旅団長は「兵の体格も考えずに、形式にとらわれてはいけない」と、細かい点に渡って意見を述べた。 (カモメ)さらに数日の後、武藤旅団長は散歩のついでにわざわざ土肥少佐の家に立ち寄り、「この前の射撃のことは、中隊に伝えてやったか」と、念を押しました。直接に注意して面目を失わせるより、そうやって伝える方法をしたのです。 (ウツボ)大正七年三月七日、武藤旅団長の姿が突然消えた。武藤少将は密命を受けて満州およびシベリアへ出張を命ぜられたのだ。 (カモメ)背広姿でひそかに官邸を出た武藤少将は、大村駅から夜行列車に乗って東上しました。見送ったのは妻の能婦子ただ一人だけでした。その時武藤少将は五十歳でした。 (ウツボ)大正七年七月ハルピン特務機関長、十一月オムスク特務機関長。大正八年一月参謀本部第一部長、七月中将、参謀本部総務部長。同期では武藤中将は出世頭だった。 (カモメ)大正十年五月第三師団長。師団長としての武藤中将は、あいかわらずの“沈黙将軍”でした。国内ではシベリア出兵と同時期に、国内で米騒動がおこり、小作争議、工場のストライキが頻発していたのですね。 (ウツボ)そうだね。反軍思想も広範に広がっていた。武藤信義の回想録にも「当時世間の反軍思想ようやく盛んとなり、師団管内の統率にもすこぶる苦心せり」とある。 (カモメ)将軍が長靴に拍車をつけて市電などに乗ると、「なんだ、こんな危ないものをつけやがって…」と、土方に足を蹴飛ばされる、というような時代だったのです。 (ウツボ)大正十一年二月十五日、武藤中将が師団長のとき、佐賀出身の先輩で、佐賀閥の領袖である宇都宮太郎大将が死去した。 (カモメ)宇都宮太郎大将の直系が武藤信義中将で、その後輩が近衛歩兵第一連隊長・真崎甚三郎大佐でした。また、東京出身ですが、武藤中将の子飼いである参謀本部欧米課長・荒木貞夫大佐などもいました。 (ウツボ)そうだね。やがて、彼らが反長州、皇道派として、陸軍の中枢を占めていく。武藤中将はとくに派閥に属してはいなかったが、歴史的に見ると、皇道派の源流に位置する。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015.07.08 06:56:30
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