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2006.12.17
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カテゴリ:宮城
我が国で初めて金を産したのは、ご存じ涌谷である。東大寺の大仏造営に献上されたのは有名。ところで3百年以上も前に、芭蕉がみちのくの歌枕をめざして宮城を訪れた際には、牡鹿半島の先の金華山が産金地だ、とされていたようだ。

芭蕉は松島の後、一関に出る経路として、緒絶の橋や姉歯の松を見るか(吉岡から奥州街道に戻る)、それとも金華山を見るか(石巻街道+一関街道)、迷った。しかし、万葉の世界のあこがれが勝り、一路石巻を目ざした。
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石の巻といふ湊に出。「こがね花咲」とよみて奉たる金花山、海上に見わたし、数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竃の煙立つゞけたり。(「おくのほそ道」)
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松島の後の行き先については、「おくのほそ道」に「十二日、平和泉と心ざし、あねはの松・緒だえの橋など聞伝て、人跡稀に雉兎蒭蕘の往かふ道そこともわかず、終に路ふみたがえて、石の巻といふ湊に出。」とあることから、芭蕉は松島から吉岡経由で古川を目ざしたのだが、途中に道に迷った挙げ句に、思いがけずに石巻に出た、と読む見解もあった。

しかし、曽良の随行日記から、道を迷うことなく石巻街道を歩いたものと解されている。人の跡の稀な猟師や木こりの歩く道を心細く歩いた、とは心情描写ということになる。たしかに、当初構想したのは、義経の下ったルートでもある奥州街道だったようだが、仙台滞在中に、仙台藩の歌枕整備に努めた大淀三千風の門下生の北野屋加右衛門から名所案内を受けて、方針を変更したのではないか、とも考えられている。

ともかくも、石巻を目ざした芭蕉と曽良は、日和山からの眺めを堪能した。歌枕である、袖のわたり(住吉公園)、おぶち(尾駮)の牧山、真野の萱原なども目にした。肝心の金華山が本当に見えたかどうかは、争いがあり定かではない。

話を戻すが、金華山は金を産しないのに、産金地と誤信されたのは、大伴家持の歌を金華山に結びつけたからである。佐久間洞巌も新井白石もそうだった。芭蕉もその伝説を受け継いだのだ。これは、大伴家持の影響だ。

「すめろき(天皇)の 御代栄えむと 東(あづま)なる 陸奥(みちのく)山に 金(くがね)花咲く」

万葉集の巻18大伴家持「陸奥国に金を出だす詔を賀く歌」は、大伴家持が産金を祝し朝廷に奉った長歌で、それに付された反歌(上記)を踏まえ、芭蕉は「『こがね花咲』とよみて奉たる金花山」と「おくのほそ道」に記した。しかし、大伴家持によって「金花咲く」と詠まれた「東なる」地は、金華山ではなく実は涌谷の里だったのだ。

■参考
 ○河北新報社編集局『おくのほそ道三百年 曽良の旅日記』1988年、河北新報社
 ○おくのほそ道総合データベース 芭蕉と石巻





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最終更新日  2006.12.17 16:23:51
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