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2016.02.27
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カテゴリ:東北
北海道ではアイヌ語地名が多いが、稚内などのナイは全道の地名の2割強、登別などベツ(ペツ)と妹背牛や羅臼などウシ(ウス、イシ)がそれぞれ1割強になるという。このほか、オマ(オマイ、マイ、マエ)もよくみられる(苫小牧、簾舞など)。

ナイとベツは、川や沢の意味で、ウシやオマは(~が)あるところの意味とされる。山田秀三の踏査により東北北部にもアイヌ語地名が濃密に分布することがわかったが、遠く離れた地にそっくりの地名があらわれることがよくある。例えば、幌内(ポロ・ナイ。大きい沢の意)という地名は北海道各地にあるが、東北では、津軽半島に袰内(ほろない)、宮城県の荒雄岳北麓に保呂内があり、しかも、現地は語義そのままの地形である。

また、北海道浦臼町の札比内(サッ・ピ・ナイ)は涸れた小さな川の意味だが、岩手県内に佐比内という地名が3か所もある。浦臼町と同様、遠野市の佐比内には砂利底の涸れ川が確認された。なお、栗原市の猿飛来(さっぴらい)もこれが訛ったものだろう。

離れた場所にあるのに、地形まで一致する地名があると言うことは、アイヌ語系統の言葉を話す人々が東北に広く住んでいたのである。

山田によると、宮城県北部、秋田山形県境から南におりるとアイヌ語地名が希薄になることから、このあたりを南限とした。宮城県では、北部に登米(とよま)、尿前(しとまえ)などのオマ地名があるが、仙台周辺にはみられない。

これらの地域で人々がいつ頃までアイヌ語系統の言葉を話していたか。中世以降の蝦夷(アイヌ)は津軽下北両半島の突端部から北にしか住んでいないので、おおざっぱに、中世以前のことであることは間違いない。すると、古代の蝦夷(えみし)はアイヌ語系統の言葉を話した可能性が高いことになる。

蝦夷の一部が倭人と異なる言葉を話したことは、古代の文献資料からも裏付けられる。日本語と区別して「夷語」とされ、しかも、平安時代の鎮守府には通訳が置かれていた。
(『藤原保則伝』によれば、元慶の乱の直後に鎮守将軍に任命された小野春風は、幼少の頃陸奥で過ごして夷語に通じていたので、現在の鹿角市あたりの反乱軍に入って説得を行い、意気に感じた多くの蝦夷が投降したという。)
当時、倭人のほとんどは夷語を話すことができず、通訳を必要としたのである。これとアイヌ語地名研究の成果をあわせれば、夷語とはアイヌ語系統の言語とみて間違いないだろう。

■熊谷公男編『東北の古代史3 蝦夷と城柵の時代』吉川弘文館、2015年
 熊谷公男氏執筆のコラムの部分を参考にしました。

上記のホロナイ地名のうち、津軽半島の袰内は中泊町小泊にある。小泊とはいっても、小泊の町とははるかに離れており、龍飛崎のすぐそば。外ヶ浜町三厩と境を接している龍飛裏海岸に、袰内川が注ぎ込んでおり、その河口部付近の地名だ。

青森県では、十和田湖の北に幌内の地名がある。大幌内川、小幌内川、大幌内牧場などが地図で確認できる。

大崎市鳴子温泉鬼首の荒雄岳北麓には、岩入地区周辺に保呂内沢がある。県道沼倉鳴子線沿いに、保呂内の地名も地図上で確認できる。





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最終更新日  2016.02.28 08:22:51
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