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3月20日の「春分の日」は、当初は地元の山口県内で過ごす予定であった。 が、しかし、さまざまな経緯があって、かつて大分県佐伯市の「大入島」を[東]として、福岡県大牟田市の「三池港」を[西]とする東西軸の両端を訪ねた流れから、その北緯約33度の東西軸をさらに[西]に伸ばして、行き着くところまで行ってみようということになった。 そこで、たまたまその時に持参したのが、前回までの「日向物語シリーズ」の旅路の過程で制作した、冒頭画像の「33」という数を意味する「菱形30面体」の軸線構成であった。その「33」とは、この立体の頂点数の「32」に、中心を「1」として加えて「33」ということである。 加えて、この「32」の頂点を持つ立体構造の「菱形30面体」は、私には「32」の花弁を持つ「菊花紋章」の原型と観えており、また「太陽」を象徴する形象という感覚があることから、図らずも「春分」という太陽が真東から昇り真西に沈む節目の日に、この造形と共に北緯「33」度線の「九州 東西軸」の西端に行けたことに、大きな意義を感じたところである。 ◎関連記事・・・丹朱の輝き(菱形30面体) さてその最西端に行く前に、どうしても行くべきところがあったようなので、そこを訪れた時に映した画像が上である。 この佐賀県武雄市にある「磐井(いわい)八幡宮」が鎮座する小高い丘は、かつては「磐井の砦(とりで)」と呼ばれ、6世紀に「筑紫君 磐井(つくしのきみ いわい)」が、大和朝廷に謀反を起こした時に、砦を築いたと伝承されるところである。 この日本古代史上最大の内乱といわれる「磐井の乱」・・・6世紀前半に起こった筑紫君(つくしのきみ)の反乱・・・について、以下そのあらすじを記しておきたい。 ・人皇第26代 継体天皇は527年に、朝鮮半島の失地回復を目的として、近江臣 毛野(けぬ)を指揮官とする軍兵6万を九州に派遣した。 ・ところが新羅は、筑紫君(国造)の磐井を誘惑して、この遠征軍と戦わせたのである。磐井は九州を支配しており、大和朝廷に対して反抗的な人物であった。磐井は、火(ひ・肥前と肥後)と豊(とよ・豊前と豊後)の両国に勢力を張り、毛野臣の軍を遮った。 ・そこで大和朝廷は、物部大連 麁鹿火(あらかい)を派遣して、磐井の叛乱を鎮圧しようとした。528年、筑紫の御井郡(福岡県三井郡)で決戦が行なわれ、磐井は殺された。八女市にある岩戸山古墳は、この磐井の墓といわれている。 以上が通説のあらすじだが、さらに「日本書紀」には、官軍に勝てそうもないことを知った磐井は、豊前国に逃げたと記されている。しかし、ある能力者の話によると、磐井は戦乱のさなかに惨殺され、遺体はそのまま戦場に放置されてしまったということである。 この「磐井の乱」については、戦勝した大和朝廷側の論理で磐井を反逆者としているが、近年多くの歴史研究家は、新羅と組んで火国と宗像海人族を従属させた大和朝廷の奸計(悪だくみ)によって、磐井を国王とする倭国(九州王朝)が攻め滅ぼされたのではないかとする仮説を展開している。 その数ある仮説の中で、おそらく最も説得力のある論文を、以下に参考記事として紹介しておこう。 ◎参考記事・・・磐井の乱 さて「磐井の砦」に訪れた後、北緯33度となる「九州 東西軸」の最西端が何処になるかを詮索した。すると長崎県西都市の「崎戸島」とわかり、またその島の西端に「北緯33度線展望台」があることが確認できた。 実はその時に、上記の「大入島」を東の起点とする東西軸が「北緯33度線」だと再認識することでき、早速そこに車を走らせたというわけである。 ☆関連記事・・・九州王朝の「東」の起点へ・・・(上) ☆関連記事・・・九州王朝の「東」の起点へ・・・(下) そこで上の画像は、その展望台に登って、九州における「北緯33度線」の西端にして、九州東西軸の「西」の起点たる「崎戸島」より真西を遠望したものだ。小雨交じりの天候のため展望は優れなかったが、この西海の先に続くであろう地球上の各地点を想像すると、感無量となるのであった。 上の画像は、その展望所の中心に据えてあった北緯33度線を基準に描かれた世界地図である。 後で調べて分かったことだが、この北緯33度線にある世界各地の主要な地域とは・・・ ・チベット自治区・インド(カシミール)・イラク(バグダット)・イスラエル(ガザ地区)・モロッコ(カサブランカ)・(バミュ-ダ トライアングル)・アメリカ(ダラス・フェニックス・ロサンゼルス) などが挙げられ、それぞれの地域で古代の文化・文明の興亡の歴史が刻まれた場所のように感じられた。 そこで、もし世界各地で北緯33度線が重要視され、その緯度線上に都市が形成されてきたとするなら、それは何故だろうということで調べていくと、どうやら「太陽運行の精密な観測」に関係しているのではないかということが分かってきた。 その一例を挙げるとすれば、東京天文台教授であった斉藤国治氏は、著書「古代の時刻制度」の中で、「延喜式」に書かれている日の出・日の入時刻を、緯度毎の理論曲線上にプロットすると、全般的に京都がある北緯35度よりも、九州を通る北緯33度の曲線に合うことを示していることから、どうやら古代において「太陽」の精密な天体観測所は、北緯33度線上にあったと考えられるのだ。 もしそうだとすれば、上に挙げた世界の各地において、おそらく精確な太陽観測が行なわれた場所があって、その観測所を中心にして地域を治める都市が形成された可能性が出てくるというわけである。 ところで下の画像は、崎戸島の先端にある駐車場から、「北緯33度線展望台」(画像中央の丸いテーブルを横から見たような施設)のある方面を撮影したものだ。 ちなみに、その崎戸島の隣となる蠣浦島には、かつて栄華を極めた「崎戸炭鉱」があり、全盛期には最新技術を導入して100万トンを越える石炭を掘りだし、現在の崎戸町の人口も2万5千人に達し、この西海の小島が「日本三大炭鉱」に数えられた時期があったという。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017年03月22日 12時17分59秒
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