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五月のゴーデンウィークが明けた頃、広島県廿日市市の「安芸の宮島」にある「弥山(みせん)」に登る機会を得た。 そこで冒頭画像は、その「宮島」の全体像を、高速の”宮島SA(下り)”から撮影したものだ。この島が形成する山並みで、中央部の最も高い山が「弥山(標高535m)」である。 この「弥山」に登るのは五回目となるのだが、特に今回は先日の「平家の落人伝説と奄美大島」の連載記事で取り上げた「平家一門」の信仰の礎が、宮島に鎮座する安芸国一之宮「厳島神社(※)」にあったことと深く関係していたように思う。 それと同時に、今回の「弥山」への登山で感じたのは、厳島神社の社名「厳島(いつくしま)」が”宗像三女神”の一柱である「市杵島姫(イチキシマヒメ)命」(以降は「イチキシマヒメ」と表記)という神名を語源とした史実を拠りどころとして、紀元前三世紀頃に「宮島(厳島)」を含む各地域で活躍していた「イチキシマヒメ」への思慕であった。 …ということで、古史古伝や各種口伝等を参考にしつつ、安芸国(広島県西部)を中心とした「イチキシマヒメ」の行方を追ってみようと思った次第である。 (※ちなみに当社の主祭神は、今でこそ”宗像三女神”の三柱となっているが、かつては「市杵島姫命」を単独一柱とする主祭神であった。) 次に上の画像は、「弥山」の山上にある展望台から、山頂部の南方に犇めく磐座群を撮影したものである。 実はこの山頂に至るまでの道中には、とてつもなく大きな石組みが、それぞれ明確な意味があるかの如く”ここかしこ”に存在していることから、これらの磐座群はおそらく、天体観測や地文測量を目的とした古代人によって、それぞれ意図的に加工され絶妙に配置されたのであろうと私には思えるのであった。 そして紀元前三世紀頃に、この宮島にて晩年を過ごし最期を迎えたとされる「イチキシマヒメ」については、その墳墓が未だ島内に確認されてはいないが、この山上の磐座に葬ったという伝承が残されている。 登山とはいえ毎回ロープウェイを利用し、山頂まで約30分の徒歩ということで、普通の登山と比べれば足取りは軽い。 弥山の山上に累々と鎮座する磐座群をじっくりと堪能し、最終便で無事に下山することができた。 たまたま御神前は干潮の時間帯だったので乾いた砂浜を歩き、”世界遺産”となった「厳島神社」の〈メインシンボル〉である「鳥居」を撮影したものが上の画像である。 夕日に映えた美しき鳥居の姿は、在りし日の気品あふれる「イチキシマヒメ」の御姿と重なるのであった。 (つづく) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年05月12日 08時05分16秒
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