ソフィア・コッポラ「マリー・アントワネット」
「マリー・アントワネット見ようぜ」と、同居人の猫氏に誘われ、ヨーロッパ時代劇が苦手なわたしは、「え!?」と躊躇しつつも、監督が、ソフィア・コッポラだったので、見に行くことにした。宮殿モノ、それは、ガラスを釘で引っかくような、「ぎょぎょぎょ!」と甘く不吉な人工物で構成された、お行儀正しいクラシック音楽に、包まれた世界。見ているうちに、発狂したらどうしよう。しかし、不安は、いい方向に、裏切られた。NHK大河ドラマのような息の詰まるステレオタイプに、はまっていない。息が詰まってるのは、嫁入りしたばかりの、作品内マリーだけだ。着替えも全て、従者にやってもらはなくてはいけない。自由がない。しきたりという鉄の鎧が、息苦しそう。しかし、見てるこちらは、たいして、息苦しくない。ポップな現代音楽、ポストロック?が、今のわたしと、昔の宮殿を橋渡ししてくれる。マリーが眺める、馬車からの森林風景。何度か、インサートされる、何でもない宮殿内の庭園風景。あれ?これって、何でもない、ただの風景の見え方に、過ぎなくねぇ?って、日ごろ、生活していて、意識から滑り落ちて、知らぬ間に、包含されてしまう、ただの、風景。歴史や王族や、革命前のパリや、ヴェルサイユなど、スペクタクルが、一切、入り込む余地のない、生き物として、眺められる、ただの風景の見え方。あー、なんで、おれの人生には、劇的なことが何もないのだろう、などと、タバコを吸いつつ、まわりの情景を眺め、思念がほどけて、「わたし≒ゼロ」な、世界の中に水泡として包含されているような、ぼややんとしているときの気持ち、風景の眺められ方。マリー・アントワネットって、マリー・アントワネットじゃなくて、ただの、感受性のするどい女の子だったんだ。普通に、痰や鼻水もでる、普通の人間だったんだ。ただ、条件設定が、VIPなだけの、おねえちゃん、やったんや。歴史ではなく、日常の息遣いが、伝わってくる。いわば、何も考えず、ぼうっとしているときは、人も猫も、なんら、変わりがない、というレベルでの、息遣いが、聞こえてくる。しかも、ずいしょ、ずいしょ、現代的な決めカットが、やってきて、カッコいい。時代を超越した、現代時代劇。