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Tano1987

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2023.12.08
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カテゴリ:カテゴリ未分類
〜久しぶりのクリスマリース作り〜

この敷地内にある自然の素材を使って、
久しぶりにリースを作った。

素材は蔓、銀木犀、アメリカヒイラギ、ヒノキ。



20数年前はワークショップをしたり、
(これは楽しかった‼︎)
テレビ出演の打診もあったが、
そんな大層なものでもなし、当然にお断りした。

ちょっと、野生みたっぷりのリース。




​〜昭和16年12月8日
      太平洋戦争開戦日に思う〜


それ以前の昭和12年(1937年7月7日)に、
日中戦争の発端となった​盧溝橋事件​が起きている。

さて、
ボクたちの親世代(第5師団、歩兵第11連隊/広島隊)も
この年に華北に出兵している。
その数、3000名。

華北から広東そしてベトナム、
シンガポール、パプア・ニューギニア島カイマナ、
ケイ諸島と転戦して、
1945年8月3日「​病院船・橘丸事件​」にて捕虜となる。

パプア・ニューギニア島カイマナ、ケイ諸島での、
その間2年間は戦闘もなく、
補給もなくただ飢えに苦しんだ。

1943年頃からほとんどの作戦は無線を傍受され、
戦争継続の後方からの武器、弾薬、食料の補給もない。
先の戦争は負けるべきして負けた。

戦後の多くの戦犯裁判では上層部は責任の擦り合いで、
無責任さが露呈している。
プライドと無能さ、無責任さは目に余るものがある。

権威主義的で威張り散らす者ほど信用してはならない、
所以だ。

3000名出兵した歩兵第11連隊/広島隊は
1,500名以下になり。その半数は負傷、死亡した。

不幸中の幸いで、ボクの親父は華北戦線で負傷して、
東京日赤病院で治療・療養した。
まだ日中戦争では負傷兵を内地に戻す余裕があった。

左手首貫通で重いものが持てず、戦闘能力無しで、
二度と召集されることもなく、軍属となった。

昭和17年(1942年)母と3月結婚した。
そして同20年(1945年)3月に兄が生まれた。
そして運良く空襲や原爆からも難を逃れた。

もし、負傷もせず、
あのまま第5師団、歩兵第11連隊/広島隊とともに
転戦していれば、命はなかっただろう、
とよく語っていた。

詳しくは下記のNHKアーカイブへ。
「捕虜となった精鋭部隊〜広島県・第11歩兵連隊」


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Last updated  2023.12.08 11:30:14



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