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〜久しぶりのクリスマリース作り〜
この敷地内にある自然の素材を使って、 久しぶりにリースを作った。 素材は蔓、銀木犀、アメリカヒイラギ、ヒノキ。 20数年前はワークショップをしたり、 (これは楽しかった‼︎) テレビ出演の打診もあったが、 そんな大層なものでもなし、当然にお断りした。 ちょっと、野生みたっぷりのリース。 〜昭和16年12月8日 太平洋戦争開戦日に思う〜 それ以前の昭和12年(1937年7月7日)に、 日中戦争の発端となった盧溝橋事件が起きている。 さて、 ボクたちの親世代(第5師団、歩兵第11連隊/広島隊)も この年に華北に出兵している。 その数、3000名。 華北から広東そしてベトナム、 シンガポール、パプア・ニューギニア島カイマナ、 ケイ諸島と転戦して、 1945年8月3日「病院船・橘丸事件」にて捕虜となる。 パプア・ニューギニア島カイマナ、ケイ諸島での、 その間2年間は戦闘もなく、 補給もなくただ飢えに苦しんだ。 1943年頃からほとんどの作戦は無線を傍受され、 戦争継続の後方からの武器、弾薬、食料の補給もない。 先の戦争は負けるべきして負けた。 戦後の多くの戦犯裁判では上層部は責任の擦り合いで、 無責任さが露呈している。 プライドと無能さ、無責任さは目に余るものがある。 権威主義的で威張り散らす者ほど信用してはならない、 所以だ。 3000名出兵した歩兵第11連隊/広島隊は 1,500名以下になり。その半数は負傷、死亡した。 不幸中の幸いで、ボクの親父は華北戦線で負傷して、 東京日赤病院で治療・療養した。 まだ日中戦争では負傷兵を内地に戻す余裕があった。 左手首貫通で重いものが持てず、戦闘能力無しで、 二度と召集されることもなく、軍属となった。 昭和17年(1942年)母と3月結婚した。 そして同20年(1945年)3月に兄が生まれた。 そして運良く空襲や原爆からも難を逃れた。 もし、負傷もせず、 あのまま第5師団、歩兵第11連隊/広島隊とともに 転戦していれば、命はなかっただろう、 とよく語っていた。 詳しくは下記のNHKアーカイブへ。 「捕虜となった精鋭部隊〜広島県・第11歩兵連隊」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023.12.08 11:30:14
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