カテゴリ:幸福論
こんにちは、尾関です。
今日はクリスマ・スイブですね。 おっと、クリスマス・イブでした。 さて、ちょっと考えてみたいのですが、 「嫌なことを頑張る」 というのは幸せになるために必要なのでしょうか? こないだ、チラシ配りをしてきました。 ぼくは、チラシ配りはあまり好きではないのです。 でも、やりました。 そうしたら、終わった後、 それなりに達成感がありました。 「頑張ったな、俺」 という感じです。 そうしたらその後に、 「なんか褒めてもらいたいなぁ」 という感情が湧き起ってきました。 そこで気がついたのですが、 嫌なことをやると、その代償として、 誰かに褒めてもらいたくなるのです。 その逆で、 好きなことをやったときには、 褒めてもらおうという気分にはなりません。 子供も、がんばって勉強をしたら、 褒めてもらいたいと思いますが、 テレビゲームをしたあとに褒めてもらおうとは思わないでしょう。 「褒めてもらいたい」 というのは多くの人が思うことです。 ぼくも褒められるのが大好きです。 けれども、あまりにその思いが強くなりすぎて、 「褒められるための行動」ばかりになると、 色んなところで問題が出てきます。 「褒められるための行動」は 自分をおざなりに扱う行為です。 自分を大切にしないあり方です。 「褒められたい」が大きくなりすぎた人というのは、 「自分は良いことをしている」 という意識がけっこう強いんですね。 「自分は褒められるべきことをしている」 という自覚があるからこそ、 「褒められたい」という思いが出てきます。 そしてそのうちに 「好きなこと/嫌いなこと」と 「良いこと/悪いこと」が混じってしまって、 なんだか分からなくなってしまうのです。 そうなってしまった人の発言の特徴は、 「どうすればいいの?」 です。 「良いか/悪いか」ということばかり考えていると、 「どうしたいか」が分からなくなってしまうのです。 「どうしたいか」と自分に問いかけることは、 自分にやさしくしてあげる行為です。 たしかに、 嫌なことを頑張らないといけない時期もあるでしょう。 「やらざるをえない」ことも たくさんあるでしょう。 けれども、やっぱり基本の「き」は 「やりたいことをやる」 なんです。 そして 「やると決めた責任を取る」 ということです。 「嫌だったけど、やらされた」 「やりたくなかったけど、仕方がなかった」 そうは言っても、 最終的に行動を選択したのは自分です。 「やりたくはなかったけど、 やっておいたほうが得だろう」 という潜在的な思いがなければ、人は動きません。 どれだけ「仕方がない」状況だったとしても、 何かしらの行動を取ったということは、 その行動を自分で選択した、ということなのです。 そのことを忘れないようにして、 やらなければならないことのなかに、 「好きなことをやる」という行動を増やしていくと、 気持ちのよい方向に向かっていくのではないかと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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