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おじん0523のヒロ散歩

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2022.05.25
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カテゴリ:茅ヶ崎市歴史散策
下寺尾官衙(かんが)遺跡群・下寺尾西方遺跡の散策を続ける。

5月11日(水)
下寺尾官衙遺跡群・下寺尾西方遺跡
所在地:神奈川県茅ケ崎市下寺尾
左側をJR相模線が走っており、車窓から見えるように案内板が立っているのだと。
この案内板を見て訪れる人も多くいると。


裏面には説明と写真が掲示されている。


七堂伽藍跡と下寺尾官衙遺跡群
「七堂伽藍」とはお寺を示す言葉で、この場所には今から約1300年前の古代(飛鳥・奈良時代)
にお寺が建っていました。地元では長い間、古いお寺があったと言われていましたが、1978年
に行われた発掘調査で、古代寺院の存在が明らかになりました。本遺跡は七堂伽藍跡という名
で知られていますが、所存する地名から「下寺尾廃寺」とも呼んでいます。
七堂伽藍跡の周辺には茅ヶ崎市の西方遺跡や北B遺跡、寒川町の大曲五反田遺跡や岡田南河内
遺跡など同じ古代の遺跡が確認されており、これらは関連する遺跡であることから全体を下寺
尾官衙遺跡群として捉えています。官衙とは役所のことで、西方遺跡では相模国高座郡の役所
(高座郡家)が発見されています。
この役所を中心に役所である七堂伽藍跡や船着き場(川津)、さらに祭祀が行われた跡など関連
する場所が見つかっています。こうしたことから下寺尾官衙遺跡群は、古代における地方の官
衙遺跡を知る上で重要な遺跡であると評価され、2015年3月10日付けで国の史跡に指定されま
した。
下寺尾官衙遺跡群が所在する位置は地理的にみて当時の陸路や海路など交通の要所てあったこ
とが窺えます。また、立地する地形は、西に向かって延びる標高約13mの平垣な台地と、台地
南側を流れる駒寄川との間に形成された砂州や凹地の低地で、高座郡家のある西方遺跡は台地
に、七堂伽藍跡や川津は低地にあたり、当時の景観も復原することも可能です。


発掘で明らかになった七堂伽藍跡
七堂伽藍跡では、1978年の調査以降2018年までに17回の確認調査が行われ、以下のことが
明らかになってきました。
① 寺院は、堀立柱塀や築地塀などによって区画される伽藍域が確認され、時期によって区画
  の形状が異なります。
② 伽藍域内における主要建物は、創建期には版築された堀込地業を有する基壇建物の金堂と、
  講堂と想定できる四面に廂を有する大型掘立柱建物跡が確認されています。
③ 寺院の時期(変遷)は、創建期が7世紀末から8世紀前半、再建期が8世紀後半頃、改修期
  は9世紀第2四半期から中葉、そして寺院廃絶期は9世紀後半と考えられます。


瓦集中遺構
割れた瓦が大量にまとまって出土している遺構で、範囲は東西約5.6m南北約7 .7mを測ります。
この瓦は建物の基礎を固めるために二次利用されたと思われ、伽藍区間の北東外側に位置してい
ますが、寺院に伴う施設と思われます。
区画遺構(築地塀)
伽藍域を示す北東部分では並行する溝の跡が確認されています。土を版築して構築された築地塀
にともなう溝と考えられます。再建期のものと考えられ、一辺78mの正方形に区画されていたこ
とがわかりました。
推定金堂 基壇建物
南北 15.8m東西 18.8mの範囲で地盤改良された遺構(堀込地業)が確認されました。
これは地盤を硬く固め、瓦葺きなど重量のある建物を建てるためのもので、仏像を安置する重要
な建物である金堂であったと考えられます。
確認された礎石
径約70 cm厚さ約30 cmの大きな石が検出されましたが、上部が概ね平らに加工してあることか
ら柱を置く礎石と思われます。関連する礎石は発見できず建物の向きや規模ははっきりしていま
せん。周りには礎石を据え付ける為の人頭大の石が置かれていました。

整地層(せいちそう)
寺院を建立する際に地形を平坦にする造成工事が行われた跡が、整地層などから確認できました。
土層観察によると寺院の北側を中心に広くみられることから、北側が低い地形であったことがわ
かりました。
推定講堂 掘立柱建物(四面廂(ひさし))
伽藍域内中央西寄りには、規則的に並んだ柱跡が見つかり、東西7間、南北4間で、各辺に廂のあ
る建物が建っていたことがわかりました。形状などから講堂と推定されます。
また、数回の建て替えが行われており、掘立柱建物から、礎石建ち建物に変遷しています。
廃棄土坑(はいきどこう)
土坑は穴のことで、大量の焼土とともに火を受けた瓦や土器などがまとまって埋まっていました。
なかには火を受けた壁材と思われる塊もあり、火災にあった建物の瓦礫を捨てたものと思われ、
火災が起きた可能性を示しています。
区画遺構(掘立柱塀)
西側の区画遺構で、溝状遺構とその中に規則的に掘られた柱穴列が確認されました。創建期の
掘立柱塀が構築されていたと思われ、不整ですが方形にお寺が区画されていたことが明らかに
なりました。

七堂伽藍跡から出土した遺物
七堂伽藍跡からは、多くの遺物が出土しています。
写真は古墳時代前期から平安時代までの土器類の一部をまとめたものです。古代では、土器のほ
か瓦や金属製品なども出土していますが、その中には、寺院の存在をうかがわせる仏教関連の多
くの遺物をみることができます。

発掘調査現場の様子(第17次確認調査全景:北から)
現在の地表面より深さ50cmの位置から、寺院の区画や関連遺構が発見されています。

上記案内板の現在の状況
地表面より深さ50cmの位置に、寺院の区画や関連遺構が残されている。

推定講堂
規則的に並んだ柱跡が見つかり、東西7間、南北4間の建物で、各辺に廂(ひさし)が設けられて
いたことがわかりました。形状などから講堂と推定されます。また、数回の建て替えが行われ
ており、掘立柱建物から礎石建ち建物に変遷しています。

敷地の北側に位置する、「推定金堂(掘込地業)跡」。

推定金堂(掘込地業)
南北15.8m東西18.8mの範囲で地盤改良された遺構(掘込地業)が確認されました。これは地盤を
硬く固め、瓦葺きなど重量のある建物を建てるためのもので、基壇を有する礎石建ち建物である
金堂であったと考えられます。

推定金堂の東側に隣接する、茅ヶ崎北稜高等学校


下寺尾遺跡群略年表
今から約1300年前のもので、官衙 (かんが) とは役所のこと。当時は律令国家と呼ばれる、
天皇を中心とした政治がおこなわれていた時代で、国家を国―郡―里 という形で統治していた。
全国は約66か所の国に分かれており、現在の神奈川県は、相模国と武蔵国の一部にあたる。
地方の国には都から役人が派遣されるとともに地方を統治する役所である国府が置かれ、
その下の郡には郡衙(郡家)と呼ばれる役所が設けられていた。相模国には8郡が存在しており、
現在の茅ヶ崎市は高座(たかくら)郡に該当していることから、下寺尾で発見された官衙遺跡は、
相模国高座郡の郡役所の跡であることが明らかになったとのこと。


寺院の伽藍域を区画する遺構
寺院西側の区画遺構で、溝状遺構とその中に規則的に掘られた柱穴列が確認されました。創建期
のものと想定される掘立柱塀が構築されていたことが明らかになりました。


東方向の県立茅ヶ崎北稜高等学校(仮校舎)。
同校は下寺尾官衙遺跡群・下寺尾西方遺跡の発掘調査で北の高台から移転している。


南のJR相模線の香川駅方向。


北西方向の寒川町岡田地区。小出川の対岸は寒川町になっている。


相模線は15~20分に一本の運行になっている。


橋は小出川に架かるJR相模線の「小出川橋梁」。


15:10
仮校舎の県立茅ヶ崎北稜高等学校。
この校舎の西側に「下寺尾官衙遺跡群」がある。

仮校舎になってからもう何年になるのか?
グランドは北側の丘にある旧校舎の後を利用している。
宇宙飛行士・野口聡一の出身校であるが彼が学んだ頃は丘の上であった。


下寺尾官衙遺跡群から香川の「浄心寺」へ向かって香川駅前通りを南下。
この辺りに熊澤酒造関連のレストランがある。


道路際に看板、
← 湘南ビール  蔵元創作料理 天青
熊澤酒造は茅ヶ崎市内で唯一地酒を製造しており、レストランを併設している。


湘南ビールのパン屋さん「パン・ア・ラ・ビェール」
いつか食事に来たいと思っているのだが。今日もスルーすることに。


JR相模線、香川駅。
1日の平均乗車人員は2019年は5,709人と年々増加していたが、2020年(令和2年) 4,488人。
新型コロナで減少しているようだ。
駅は単式ホーム、1面1線を有する地上駅、開業は大正10年(1921)9月28日。


駅前から香川駅前通りの北方向の中通り第一踏切。
浄心寺へはこの路地を左方向へ進む。


浄心寺への曲がりくねった角に「道祖神」。


社の中に「双体道祖神」。


15:22
香川辺りの道路も区画整理されておらず狭い。
日蓮宗 浄心寺(じょうしんじ)
所在地:神奈川県茅ケ崎市香川5丁目8-1
浄心寺は山号を熊沢山といい、日蓮宗の寺院である。


浄心寺墓苑  墓地分譲中
開運七面大明神
  毎月9日・19日・29日 御祈祷加持


山門前に題目碑「南無妙法蓮華経」が建つ。

山門前から本堂を望む。

熊澤山 浄心寺
文禄四年(1595) 浄心院日教を開山として香川村の熊沢氏が創建したと言われています。山門を
入って左手に題目塔に並んで勘重郎(かんじゅうろう)の供養塔があります。また七面大明神(法
華経の守護神)もまつられています。


熊澤山 浄心寺の縁起
熊澤山浄心寺は文禄四年(1595) 浄心院日敬上人によって創建された日蓮宗の寺院です。
寺院内には「法華経」を守護する「七面大明神」が祀られ、古来より近隣の人々に「七面様」と
信仰を集めてきました。


掲示板には ”「三橋勘重郎」と供養塔” の由来が貼られている。


山門を入り左手に建つ石塔。


三橋勘重郎の「供養塔」
名主で農地整備などに尽力したが、飢饉の折に領主に直訴して処刑されたのだと。
勘重郎については、この供養碑のほかは記録も無く、詳細は不明とのことである。香川の古老
の伝承ということになっている。それによると、勘重郎は、寛政二年(1790)ごろの名主で
あった。当時の香川は、本間忠左衛門季賢の知行地で、石高は三四七石二斗六升であった。
年貢は米で納めることになっていた。ここ香川は開村以来水利のきかない土地で雨がなければ
収穫皆無もあり、無残な生活に陥った。この頃は、毎年不作が続き、名主の勘重郎は年貢の軽
減を奉行所に嘆願したが、聞き届けられず、単身江戸に赴き、強訴に及んだ。その結果、願い
は通ったが、強訴は御法度。勘重郎は、財産没収、死罪になった。寛政五年三月(1793)村中
総施主という異例の供養を行い、石塔を建ててねんごろに慰霊の式をあげたのが、今に残る供
養塔の由来とされている。


供養塔正面には、
 「俗名三橋勘重郎
     妙法実相院寿仙日量霊 村中世話人惣施主
            十二月二十九日」。


そばではアヤメが色鮮やかに咲いていた。


ズームアップ。


三橋勘重郎の「供養塔」。
旱天に一滴の雨さえない天水場の嘆きはその後も続き、昭和六年(1931)でさえ
未曾有の旱魃に襲われ、田が割れて植え付け不能となったため、やむなくまずい
外米何百俵かを部落で一括購入して凌いだことさえあったといわれている。

逆光の本堂。後方には香川グリーンゴルフが隣接。


本堂の左奥にある、石祠。


香川グリーンゴルフ
所在地:神奈川県茅ケ崎市香川5丁目8-47
本格的なショートコースやパッティンググリーンも備えたゴルフ練習場である。
営業時間は平日朝9時~夜21時、土曜日が朝8時~夜21時、日祝祭日が朝8時~夜20時となっ
ており、年中無休で営業しています。通常料金は、1カゴ50球で400円(1球あたり8円)となり、
夜間打ち放題サービスも設定されている。車は40台まで収容可能な駐車場が完備されている。


浄心寺から萩園地区へ行くために県道45号線(大山街道)を南下。
小出川に架かる大曲橋を渡ると寒川町と茅ヶ崎市との境にある「河童徳利ひろば」へ。


河童徳利ひろばは今年3月28日に、「間門川 伝説 河童徳利 発祥の地」としてオープンした。
広場には河童像が立ちいつも徳利から〇を流している。


15:45
小出川越しに富士山が薄く見えていたが、冬場には圏央道越しに見える絶景ポイントである。



                                     ー 続く ー





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最終更新日  2022.09.10 10:24:44
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