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おじん0523のヒロ散歩

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2022.05.24
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カテゴリ:茅ヶ崎市歴史散策

白峰寺(はくほうじ)の墓地の散策を続ける。

5月11日(水) 14:11
桜並木の参道を見下ろす。両側に戦死者の墓石が並ぶ。
サクラも50数年経つと大木になる。サクラの開花期も良いのではと。


桜並木をのぼった先に広がる古い墓石群の「松平家開基墓所」。
何も説明板がなかったが案内板から。


古い墓石をズームアップ。


豊安院殿宗誉徳順居士
廓隆院殿大誉廣山居士
墓石の側面には「寛政八丙辰年 十一月十日 七代○○○」と。


本堂の裏は広い墓地になっており、1~3聖地、1区、2区、3区、5区、5聖地となっている。
その入り口に「歴代住職墓所」がある。


歴代住職名
開 山  峩國(がこく)禅大和尚  天正九年二月二十三日入寂
二 世  通國門泰大和尚
三 世  快翁守慶大和尚     明暦元年五月二十七日入寂
四 世
 ・
 ・
二十九世 圓隨智玄大和尚     埼持智玄 平成四年二月二十七日入寂


歴代住職墓所に建つ墓石には「當山歴住諸大和尚品位」と。
比較的新しい墓石であるようだ。


廻りには各々の墓石が立ち並ぶ。


名のある雑草もズームアップすると絵になる。


墓地から参道を下り、白峰寺の境内を見下ろす。


観音堂手前のペット共同墓地には「想い出」碑。
  平成8年9月吉日
花が供えられ、碑の裏にはペットの塔婆が立つ。


白峰寺 白衣観音
観音さまは、世の中の音声を観じて、一切の生きとし生けるものに無量の慈しみの心をもって、
苦しみから救ってくださる菩薩さまです。観音さまは救済にあらわれる時、多くの姿をとると
言われています。白衣観音はその姿のひとつであり、深く信仰することにより立派な子供が授
かるといわれています。
当山の白衣観音への信仰は江戸時代から続き、当時盛んだった大山詣りの帰り道には当山を訪
れ、安産祈願はもとより、育児祈願、息災延命や家内安全などを願って手を合わせたと伝えら
れています。皆さまも、生きとし生けるもののために心静かにお参りください。 
                                     合掌
                                  景徳山 白峰寺

そばではペット?の猫。


手前に「ペット共同墓地」、右奥に「地蔵堂」。墓地へは緩い坂道を上った。


ペット共同墓地をズームアップ。
いつも参拝者が絶えないようで新しい花が供えられている。


観音堂
安永8年(1779)の頃、白峰寺第11世大嶺梅薫(だいれいばいくん)大和尚が江戸に
布教していた折に、その説教に感銘した芝宇田川町の花屋治郎兵衛より唐国伝来
の白衣観音像が奉納された。以来、白峰寺の観音信仰は江戸時代から庶民の信仰
を集めてきた。しかし、本堂と同様に火災により当時のものは焼失してしまった
が、昭和49年に復興した。


観音堂の左奥にペットの納骨堂。


入口の上に「観音堂(納骨堂)」


観音堂の前から本堂、右奥に「隨雲殿」。


14:32
白峰寺を後にし、次の南西方向にある「西方貝塚」へ。


14:35
白峰寺から坂を下り、途中「正一位伏見高倉稲荷神社」を探すが見当たらず。
先程通った大岡越前通りのみずき交差点へ戻り、この交差点を西方向へ進む。


大岡越前通りの三叉路に建つ道祖神。右が新道で左が旧道であろう。


大きく刻まれた「道祖神」の石碑と石塔。


14:40
大岡越前通りを西へ進み県立北稜高等学校のグランド南を通り、正面に大山が見える。
坂を下ると小出川に架かる寺尾橋。右側の壁面際に案内板が立つ。
所在地:神奈川県茅ケ崎市下寺尾
日曜日の朝は野球の練習でいつも走る道であるが、天気が良いと左前方に富士山が見える絶景。


西方貝塚(にしかたかいづか)
貝塚の時代 : 縄文時代前期( 6 ~ 7000年前頃)
立   地 : 相模野台地南西端の平坦部北側 海抜約12m
所 在 地 : 茅ヶ崎市下寺尾601付近
貝 の 種 類 : ヤマトシジミ(主体)、チョウセンハマグリ、カキ、サザ工など
伴 出 遺 物   :   縄文土器(関山式、黒浜式を主に上坊式を含む)
                      石器(石鏃、打製石斧、削器など)
この時期は、地球温暖化による海面上昇で、眼下まで海が寄せていました。小出川、駒寄川の
河口には海水と淡水が混ざリ合うラグーン(潟湖)が形成されてヤマトシジミが生息していまし
た。縄文時代前期頃の人々の活動やその頃の自然環境を知ることができる貴重な遺跡です。
                    平成28年3月
                    茅ヶ崎市教育委員会
                    ちがさき丸ごとふるさと発見博物館

下寺尾官衙遺跡群と弥生時代環濠集落
下寺尾官衙遺跡群は、相模野台地南西端のこの地に7世紀終わり頃に営まれた高座郡衙(郡の
役所)と南側の低位部に存在した古代寺院(七堂伽藍跡)、及び小出川に築かれた津(船着き
場)、河川を利用した祭祀場などからなる古代の公的機関を包括しています。
弥生時代環濠集落は、空堀(巾3m深さ2m程度)で囲まれたムラで、関東では最大級の規模と
いわれています(弥生時代中期:2000年前)。

各配置、「高座郡衙跡」「七堂伽藍跡」「津、祭祀」「祭祀」

坂を下り、寺尾橋から小出川の下流側を望む、JR相模線の架橋。


相模線の新型車両が走る。


茅ケ崎住民になって以来、この相模線も電化され、将来は複線化が計画されているがいつに
なるか。また倉見駅には東海道新幹線の新駅も計画されているのだがこれもいつになるのか。

寺尾橋の東側を下り南東方向に広がる農村風景。
正面遠方のネットは「香川グリーンゴルフ」のネットであろう。


ズームアップするとこの後訪れる「七堂伽藍跡」の大きな看板が見える。


寺尾橋から一段低い低地を東方向へ進むと道路脇に石柱、説明板が建つ。
ここの北側一段高い丘に北稜高等学校のグランドがあり、大岡越前通りが走る。


石柱には「七堂伽藍跡」と刻まれている。


下寺尾寺院跡(伝、七堂伽藍跡)
   茅ヶ崎市下寺尾字西方
このあたりは昔から七堂伽藍跡と呼ばれており、周辺からは古い布目瓦や土器が出土し、建物
を支える礎石も多数発見されています。「上正寺略縁起」によると、昔この地に「海円院」と
いう寺院があって寿永・文治の頃(1182~1190)兵火によって焼け落ちたと記されています。
昭和五十三年七月に茅ヶ崎市史編さん事業の一環として行われた確認調査の結果、瓦の破片、
灯明皿として使われた多量の土師器などが出土して、このあたりが古代寺院の跡であることが
明らかになりました。
平成十二年度から開始された詳細確認調査では、寺院の主体である伽藍域を囲む大型柱穴列な
どの区画遺構が発見されたことから、一辺約八十メートルに及ぶと推定される方形区画の伽藍
域を中心に、七世紀の終わり頃に創建された寺院であることがわかってきました。また、この
伽藍域の中では、丁寧に版築した「掘り込み地業」と呼ばれる土地造成遺構が確認され、この
部分に礎石建ちの主要な建物があったことが明らかになっています。また、こうした調査によ
って、銅匙、軸端、墨書土器、香炉など寺院に関連する遺物も出土しています。
なお、石碑の土台石は当時の礎石を利用しています。
                    平成二十三年三月
                    茅ヶ崎市教育委員会
                    ちがさき丸ごとふるさと発見博物館

七堂伽藍跡碑について
本碑は、昭和32年(1957)12月15日に七堂伽藍遺跡保存会によって建立されました。保存会には、
石碑建立の発起人142名、特別賛助員19名、寄付等に協力された45の市内の商店や会社などが参
加していました。
碑文には、七堂加藍跡の歴史的説明に加え、建立の趣意が次のように刻まれています。
 「今回我等が建碑の趣意は是等の貴重な資料の保存と今後研究家の訪れるのを待っ為に他なら
  ない。」
七堂伽藍跡は、下寺尾官衙遺跡群の一部(下寺尾廃寺)として、平成27年(2015) 3月10日付けで
国史跡に指定されその中心部が保存されています。今回建碑60周年を記念し、遺跡保存の足跡を
後世に継承するため説明板を設置しました。
 石碑仕様
 石 質  新小松石 産地 根府川
 規 格  高さ325cm 幅44cm 厚さ24cm
 揮 毫  内山岩太郎(神奈川県知事)
 碑 文  撰文 鶴田栄太郎
      書  佐々木孝之
 製 作  石工 鍛代忠義
                    平成29年12月16日
                    茅ヶ崎市教育委員会

建碑式の記念写真 昭和32年(1957)12月15日


14:50
下寺尾官衙(かんが)遺跡群・下寺尾西方遺跡
所在地:神奈川県茅ケ崎市下寺尾
JR相模線沿いにある遺跡で現在は埋め戻されている。


大きな説明パネルが2基設けられている。


相模線の車窓から見える「史蹟 下寺尾官衙遺跡群」の大きな看板。
ここは相模国・高座郡家のあった場所。郡家(高座郡家)・郡寺(下寺尾廃寺)、関連施設の
川津(船着場)・祭祀場などが発掘調査で明らかになっている。相模国では2例目とのこと。


遺跡があるのでこの辺りは開発調整区域になっているのか。


手前に「史蹟 下寺尾官衙遺跡群」の案内板が設置されている。
詳細に説明文が書かれ写真も貼り付けられているが、風を考えてか傾斜しているので撮影には。
後方は、県立茅ヶ崎北陵高校。


史蹟 下寺尾官衙遺跡群
下寺尾官衙遺跡群は、茅ヶ崎市下寺尾に所在する西方遺跡と七堂伽藍跡を中心に、香川北B遺跡
や隣接する寒川町の大曲五反田遺跡、岡田南河内遺跡を含めた複数の遺跡からなるもので、今か
ら約1300年前に古代相模国高座郡に設置された官衙(役所)を中心とした遺跡群です。
本遺跡群は比較的限定された範囲に郡家(ぐんけ・高座郡家)や郡寺(下寺尾廃寺)、さらには
関連する施設(川津)と祭祀場などが発掘調査によって明らかになっており、地方における官衙
遺跡の全体像や変遷、立地を知る上で重要であると評価され、平成27年(2015)3月10日に国
の史跡に指定されました。


相模国の八郡
現在の神奈川県は、古代においては相模国と武蔵国の一部に該当していました。
このうち相模国は、さらに8郡に分けられていました。相模国には、足柄上(あしがらのか
み)郡、 足柄下(あしがらのしも)郡、余綾(よろぎ)郡、
大住(おおすみ)郡、愛甲(あゆかわ)
郡、 高座(たかくら)郡、御浦(みうら)郡、
鎌倉(かまくら)郡の8郡があり、この中でも高座
郡はその位置や大きさなどから
相模国の中心的な郡であったと推定されます。
ここ下寺尾は、郡の役所(郡衙)としては、古い段階に造営されたと考えられます。

下寺尾廃寺(七堂伽藍跡)
下寺尾廃寺では、昔から古瓦などが発見されており、昭和32年(1957)には142名の有志が中心
となり遺跡の調査と保存を願い「七堂伽藍跡」の石碑が建立されています。昭和53年に行われ
た岡本勇氏による確認調査で寺院跡であることが明らかにされ、その後も茅ヶ崎市教育委員会
によって行われた確認調査で伽藍域の範囲、主要建物の内容、年代などが明らかになりました。
寺院の年代は、創建期が7世紀末から8世紀前半、再建期が8世紀後半、改修期が9世紀第2四半
期から中ごろ、そして寺院廃絶期は9世紀後半と考えられています。さらに10世紀後半から11
世紀代にも仏堂が建てられていたと考えられています。


金 堂
発見された金堂は、丁寧に版築された掘込地業を伴う基壇建物で、周辺からは瓦が多数出土して
おり瓦葺きであったと思われます。掘込地業とは、重量のある建物を建てる部分を掘り下げ、新
たに土や粘土などで突き固め堅牢な地盤として安定させる工法のことです。
講 堂
講堂と考えられる建物は、柱が3間×7間の規模を有する大型掘立柱建物で東西方向に建てられて
います。この建物には、各面に廂(ひさし)が付いており、格調の高い建物であることが窺えます。
建物は、再建期においてもその場所を引き継ぎながら建て替えられたと思われます。
伽藍域
寺院の伽藍域については、大型柱穴列や区画溝によって規模や時期が確認されています。創建期
には掘立柱塀によって区画され、不整の方形に囲まれた形であることが、また再建期には築地塀
によって一辺78mの正方形に区画がされていたと考えられます。

川津と祭祀場
小出川河川改修に伴う調査で、川津(船着き場)が発見されました。近くには掘立柱建物が複数
並立して建っており、役所に関連する物資の荷揚げや積み出しのための一時保管施設であったと
考えられます。時期は8世紀後半から9世紀中ごろと考えられています。
また川津が発見された付近からは、人面墨書土器や絵馬、皇朝銭、斎串などが出土しており、こ
の場所で水辺の祭祀が行われていたことが明らかになっています。官衙周辺で行われていた穢れ
などを祓う神祇祭祀がここでも行われていたと考えられます。

高座郡家(たかくらぐうけ)
郡庁、正倉、館、厨など郡家を構成する建物が明らかになっています。郡家の範囲は区画を示
す溝状遺構が発見されており、東西約270mの規模を有していた時期があったと思われます。
また、郡家の年代については、中心となる郡庁の遺構状況からⅠ期が7世紀末から8世紀中葉、
Ⅱ期が8世紀中葉から9世紀前半と考えられています。なお、郡家は台地上に配置されており、
往時は遠くから郡家の存在を知ることができたと思われます。 
正 倉
正倉は納められた税を保管していた倉庫で、郡庁北側約100m地点で、東西方向に総柱の高床
構造を持つ掘立柱建物が4棟以上並んで建っていました。また、南側には並行して東西方向に
2間×12間以上の長い建物があったことも明らかになっています。
郡 庁
郡家の中心となる郡庁は政務や儀式が行われた場所で、規模は東西約66mを測り、中央に位置
する正殿は建物の四面に廂(ひさし)が付いた格調の高いものでした。当初は正殿の北側に後殿、
東と西側には脇殿が配置されていましたが、後に塀で区画する形に変化しています。


14:53
祭祀場(さいしば)
みずき地区の区画整理事業に伴う調査では、発見された旧河道から、木簡や墨書土器、皇朝銭、
銅鈴、櫛、さらには漆紙文書などが出土しています。川津付近で発見された祭祀場と比べると、
やや仏教的要素が見受けられる内容の祭祀が行われていたことが窺えます。


                                     ー 続く ー






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最終更新日  2022.09.10 10:25:29
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