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おじん0523のヒロ散歩

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2023.01.26
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カテゴリ:続 日本100名城
今回の旅を計画してGoogleマップを見ていて「国定忠治の地蔵」があることを知り是非訪れ
たいと、帰路は国道406号 (草津街道・信州街道) のルートを選んだ。

11月16日(水) 15:20
忠治地蔵 (国定忠治刑死場跡)
所在地:群馬県吾妻郡東吾妻町大戸3412
国道406号を高崎方面へ南下。道路沿いに大きな木が聳え、石柱が立っていた。


石柱には、
正面に「國定忠治処刑場跡」
側面に「國定忠治慰霊碑入口」と深い彫り。


バス停の「忠治地蔵前」。
国定忠治は、江戸時代後期の侠客である。「国定」は生地である上野国佐位郡国定村に由来し、
本名:長岡忠次郎。 後に博徒となって上州から信州一帯で活動し、「盗区」として一帯を実質
支配する。天保の大飢饉で農民を救済した侠客として、講談・浪曲や映画、新国劇、大衆演劇
などの演劇の題材となっている。


国道沿いから、国定忠治刑死場跡を見下ろす。
国定忠治の刑の執行は有名なはりつけ刑ですが、現在そこには慰霊碑が建てられている。因み
に処刑場跡の駐車も見学も無料となっている。


国道406号 (草津街道・信州街道) の大戸宿方向を振り返る。


道路脇には「山のきのこ 直売所」があったが閉店中。


國定忠治礫刑場遺跡
上州侠客此処に眠る忠治は四十一才の時、関所破りの罪に依り礫の刑に処せられ、今の一番奥
の石塔の下に埋められて居るのである。天保七年忠治は二十七才の時に三十余人を連れて大戸
の関所を破り反逆の罪となり礫刑された。
(注) 当時の刑法の條文からすると、徳川氏制検札宣告文百ヶ条の内第二〇に於て関所を破って
山越した者、関所を忍び通った者関所通らず山越した者、又案内者等は其の関所にて礫刑にし
女は郷土より追放すとある。秋に二夜三日間晒首とされた。郷土の人々は忠治の冥福を弔って
墓碑と地蔵尊建立し (現在は新しく石碑建直した)。尚、処刑に関する当時の準備始末書は、同
地大字須賀尾高橋慶重氏及び元大戸郵便局長一場氏宅に保存されて居る。
  昭和四十九年十一月


忠治刑死場跡に建つ忠治の地蔵尊。
旅姿三度笠には程遠い姿であるが。


侠客の国定忠治、清水次郎長の名は映画等でよく知っている世代だが今の若者は?。
この旅をするまで忠治が関所破りをやって此処で磔刑されたことは知らなかった。
磔 (はりつけ):罪人を板や柱などに縛りつけ、槍などを用いて殺す公開処刑の刑罰の
       こと。磔刑 (たっけい)。


ズームアップするが忠治の顔も風化して無残にも。
忠治ファンが生け花、お酒を供えていた。


忠治処刑場の跡
この地を尋ねた俳人等のなかに次に掲げる名句がある。
  風花や忠治終焉の薮川原     八束 (東京)
  任侠の名やとこしえに松の花   樗雀 (東京)
  蜩に「忠治の松」のいわれ聞く  空望 (千葉)
小説 新説国定忠治           左保著 (東京)
昔からこの地蔵尊におすがりすると脳卒中に掛らないという
百五十年記念   忠治史蹟保存会
         大運寺浄友会


石碑には「侠客 國定忠治慰霊碑」と。


國定一家 十二人衆 慰霊碑


苔むした石碑には「慰霊碑建立之由来」
侠客国定忠治は上州佐波郡国定村に生れ天明の大飢饉に際し近○の民・・・後略
  昭和四十三年七月吉日
    世話人 群馬高崎 茂木○○ 高橋○○ 富田○○
        埼玉大宮 山本○○ 榛名町○○○○
        大戸   土谷○○


忠治処刑場跡を後にする、
石柱の裏面には、「昭和五十六年四月 五代目酒梅組内 橋本 実
                          田渕政治 建之」
側面には、「國定忠治慰霊碑入口」


次に訪れたのは、ここも帰路に訪れたいと思っていた「小栗上野介ゆかりのお寺 東善寺」。
忠治処刑場跡から、国道406号 (草津街道・信州街道) を高崎方面へ南下。

15:40
曹洞宗 東善寺 (とうぜんじ)
所在地:群馬県高崎市倉渕町権田169
県史跡指定による小栗上野介忠順(ただまさ)の墓が有ることで知られている。小栗忠順は江戸
に生まれた。安政7年(1860)日米通商条約批准のため米国に渡航し帰国して外国奉行となった。
以降も陸海軍奉行・江戸町・歩兵・軍艦・勘定などの奉行を歴任する逸材であった。また、横
須賀製鉄所建設や兵制改革などに尽くしたが、戊辰戦争では抗戦論を唱えて失脚し、領地であ
る権田村に隠棲していた。しかし、官軍の探索により捕らえられ、滞村64日後の4月6日烏川畔
で斬首された。この処刑場跡にも碑が立てられている。


国道406号 (草津街道・信州街道) 沿いに建つ、
「県指定史跡 小栗上野介忠順の墓」
清酒 小栗上野介の里 本醸造 権田」の看板。


国道沿いに駐車場があり車を停め参拝。


木柱には「草津街道 信州街道」
側面には「左 草津温泉へ 43.9km、小布施へ 96.9km」。


寺の門前に建つ「小栗上野介の寺 東善寺」
小栗上野介は日本近代化の礎を築いた。ここ東善寺は小栗家五代政信公を中興開基とする曹洞
宗のお寺である。上野介一家は、このお寺に二ヶ月あまり仮住まいして、観音山に住居建設を
進めた。境内には上野介、又一、殉難の家臣らの墓が並んでいる。墓右脇には黒椿が植えられ
ている。遺品館もあり遺品も見られる小栗上野介ゆかりのお寺である。


参道に建つ門碑には「・・・・・」


左側にも石灯籠と、門碑


石柱には「曹洞宗 諏訪山 東善寺」と。


石像三体が西日を浴びる。


石碑には「御手水」と刻まれていた。


掲示板に、小栗上野介関係の記事が貼られていた。
  • NHK大河ドラマ『青天を衝け!』  小栗忠順役 (武田真治)
  • 小栗上野介情報 82   対馬事件ー1
  • 小栗上野介情報 83   対馬事件ー2
  • 3年ぶり 小栗まつり 再開        等々。


境内の紅葉が西日を浴びて鮮やかに映えていた。


黄葉も負けじと。


境内に入り手前に寺務所。
拝観受付の札があり、資料館もあったが時間が遅くなるのでスルーした。
東善寺の境内に大切に保管されている1本のネジがある。一見なんの変哲もないただのネジだが、
その伝来を聞けば、印象は一変すると。


本 堂


本堂の扁額「東善寺」


境内には石祠、右側には妙音碑が建っていた。


石像も西日を浴びていた。


像の足元には米俵?、手には槌か。


本堂左側の庭、松の古木の下に上野介と栗本鋤雲の胸像が並ぶ。


小栗上野介忠順 (ただまさ)(1827~1868)
  昭和二十八年九月横須賀市より贈られた胸像   朝倉文夫制作
 ※ 横須賀市博物館前庭の像はこの胸像を複製


西日を浴びる「上野介  胸像」。


小栗上野介の優しそうなお顔
今は亡き某先輩を思い出すようなお顔である。


栗本鋤雲 (じょうん)


栗本鋤雲
  瀬兵衛安芸守 (1822~1897)
横須賀製鉄所建設の功労者 函館で開拓、病院開設、蝦夷、樺太千島巡視等に功績あり、慶応
三年滞欧中にアルプス登山した最初の日本人小栗上野介とともに、幕末の日本近代化に尽力、
明治以後報知新聞主筆として活躍、この胸像は鋤雲の門人犬養毅が作らせ御蔵島に蔵置せら
れる石膏像を原形とする。著「匏庵 (ほうあん) 遺稿」。
  昭和三十一年五月六日
     元海軍建築局長吉田直殿建贈
 ※ 横須賀市博物館前庭の像はこの胸像を複製


境内には石祠、いろんな石像、六地蔵が立っていた。


県指定史跡 小栗上野介忠順の墓
    指 定 昭和二十八年八月二十五日
    所在地 高崎市倉渕町権田一六九 東善寺
小栗忠順は、徳川譜代の旗本で文政十(1827)年江戸で生まれ、権田村(三七五石)は禄高2,700
石(九ヶ村)の領地の一つであった。
上野介を称し、安政六(1859)年 三十三歳で井伊大老に抜てきされ豊後守に任官、万延元(186
0)年 日米修好通商条約批准書交換の遣米使節として新見豊前守正興、村垣淡路守範正と共に
米艦ポーハタン号で渡米。任務を果たし大西洋、インド洋を経て帰国。それより外国、軍艦、
江戸町、歩兵、陸軍、勘定の各奉行を歴任、フランスと結び幕府の財政や洋式軍隊の創設など
幕政の改革に尽くし、日本産業革命の地横須賀製鉄所(後の海軍工廠)をつくった。
明治維新の幕府解散で勘定奉行を免ぜられ、慶応四(1868)年三月一日、権田東善寺に隠棲す。
西軍(明治政府軍)がこれを無実の罪で追捕し、閏四月六日、水沼村烏川原にて斬首。
時に四十二歳であった。
         平成七年十一月
                            群馬県教育委員会
                            倉渕町教育委員会


この石碑には「吊小栗上州公」と。
漢字が刻まれていたが風化して読めなかったが。
・・・・・ 啓蒙興産百年○ 何知罪得天○ 従容○死烏川畔
             昭和二十九年五月六日 


こちらの石碑も「仁義禮智信」、後方には六地蔵。


墓参用の水汲み場であったか。


六地蔵が並ぶ。


家臣の墓
(右から)
塚越冨三郎   権田出身
  小栗夫人を護衛して会津へ行き、慶応四年九月一日耶麻郡高郷村一竿で戦死  二十三歳
  一竿に慰霊碑がある。
佐藤銀次郎   権田出身
  小栗家歩兵の一人、
  小栗夫人を護衛して会津へ行き、九月十一日喜多方市熊倉で戦死       二十一歳
  熊倉に葬られ墓がある。
渡辺太三郎𠮷享  江戸からの家臣
  上野介に従って権田へ移り、西軍により上野介とともに斬首さる       二十歳
大井磯十郎   権田出身
  小栗家歩兵の一人、西軍により上野介とともに斬首さる
荒川(江幡)祐蔵   江戸からの家臣
  上野介に従って渡米、権田へ移り西軍により上野介とともに斬首さる     三十六歳              


墓石には戒名が刻まれている。
皆さん若く一人を除き二十代そこそこ、有望な人材が斬首、戦死に。


五人の家臣の奥に「小栗上野介忠順墓 群馬縣指定重要文化財史跡」の木柱。
右側に「小栗上野介忠順」。
左側に「小栗又一忠道(養嗣子)」
地元ファン等が多いようで墓の廻りには多くの塔婆が並べられていた。


上野介の墓右脇には黒椿が植えられているので鬱蒼としている。
小栗上野介 遺愛の椿
  小栗上野介が江戸神田駿河台の屋敷が・・・・・・・・・
  五月に黒味がかった赤い八重の名花を咲かせる。
小栗上野介忠順
  慶応四年閏四月六日 西軍により無実の罪で村内水沼河原に斬首さる。   四十二歳
  ここは供養墓で遺体首級とも上の本墓にあり。


上野介の左側に、養嗣子の小栗又一忠道
又一は、上野介の養嗣子で父の命により申し開きをするために官軍に出向いたが、
翌7日、主従4人とともに高崎城下で斬首された。


15:50
小栗又一忠道の墓石の上には大きな?。



                                      ー 続く ー





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最終更新日  2023.01.26 03:00:08
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