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カテゴリ:近隣の市の歴史散策
桜堤通りを南下、石戸宿の寺社史蹟散策に。 4月15日(月) 12:15 桜堤通り沿いに建つ社号標石には「村社 天神社」と。 道路脇に駐車スペースがあり駐車して散策。 ![]() 入口に立つ案内支柱には、 石戸城跡 0.5km、北本市子供公園 0.5km。 ![]() 伝鎌倉街道をめぐる ~ 石戸宿の宿並と御茶屋(御殿)跡周辺の文化財 ~ 北本市の西部には、鎌倉街道と伝わる古街道が南北に通っています。この街道は当時の幹線で ある中道から浦和の秋ヶ瀬あたりで枝分かれして荒川沿岸を北上し、栃木県へと通じる支道で あると考えられています。この街道沿いには戦国時代の石戸城跡や近世の御茶屋(御殿)跡をは じめとした文化財が数多く存在し、歴史的にも重要な道でした。また、街道の真ん中にはかつ て水路が通っており、祭礼の時は東側だけを使っていました。この街道周辺は徒歩での歴史や 自然散策にうってつけですので、ぜひ散策してみてください。 北本市教育委員会作成 ![]() 1 石戸城跡 (①) 石戸城は戦国時代の城郭で、岩付城主・太田氏の支城といわれています。永禄5(1562)年 11月、北条氏康・武田信玄の連合軍が松山城(吉見町)を攻めた際、これに対する岩付城主 ・太田資正が上杉輝虎(後の謙信)に救援を求め、翌年2月、輝虎は石戸城に着陣しています。 2 御茶屋(御殿)跡 (②) 徳川将軍が鷹狩の際に休息をとった施設を御茶屋といいます。特に家康は鷹狩を好み、鷹 場のあった川越(川越市)から忍(行田市)を往復する際には鴻巣御殿に宿泊し、石戸の御茶 屋で休息をとったと考えられます。ここには現在も「御殿稲荷」が祀られており、地元で は「御殿」の敬称をもって呼ばれていたことがわかります。令和3年に北側の一部を発掘 調査したところ、施設を区画する堀跡と江戸時代初期の遺物を検出したことから、ここに 御茶屋があった可能性が高くなりました。 3 神社仏閣と石造物 放光寺と天神社 (③) 放光寺は天台宗のお寺で、境内に中世の板碑があることからかなり古い創建と考えられ ます。同じ敷地内にある天神社は地域の氏神で、学問の神様である菅原道真を祭神とし ています。また、境内には樹齢約600年といわれる「ムク」や、江戸時代の石戸領第6代 領主・牧野贇成(よししげ)の揮毫による幟旗など、市指定文化財が5件所在します。 石造物 (④⑤) 石戸宿の宿並周辺には様々な石造物が残されており、それらを探しながら歩くのも楽し いものです。放光寺には地獄の番人である閻魔王(④)が祀られており、宿並の南端の庚 塚(かねづか)と呼ばれる地区には嘉永4(1851)年に石戸連の俳人15名が俳句の上達を願 って建てた「芭蕉句碑」があります (⑤)。 北本市教育委員会作成 ![]() 「宿並三六軒」と呼ばれた石戸宿の家並と屋号 宿並は、間口が狭く奥行が長い地割りが特徴で、現在でも戦国時代からの区割りをよく留めて いることがわかります。 ![]() 参道脇には咲き終わったウメの古木。 ![]() 天神社 所在地:埼玉県北本市石戸宿6丁目64 祭神は菅原道真で、石戸宿村の鎮守。江戸時代中期頃の創建と考えられている。10月の祭礼の 日にはササラ獅子舞が奉納されていた。石刻絵馬「菅原道真」、「石戸宿の天神社幟」「天神社 幟」などの指定文化財が奉納されている。 ![]() 石戸宿と天神社 石戸宿の歴史は古く、鎌倉街道に沿って中世期から開かれていたという。また、江戸時代には、 石戸領二十村の本郷といわれ、末期には毎年三月二日・五月二日・七月十一日・十二月二十七 日の四回、市が立ち賑わっていた。 街道に沿って民家が立ち並ぶという典型的な宿場の景観を今に伝えている。また、昔は道路の 中央に排水溝が設けられていたという。 天神社は、江戸時代の中期頃に石戸宿の鎮守として勧請されたと言われ祭神は菅原道真である。 祭礼は、二月二十五日・十月十五日(現在は十月第二週の日曜日)で、この日には「ささら獅子 舞」(市指定文化財)が奉納(上演)される。 昭和六十一年三月 埼 玉 県 北 本 市 ![]() 朱色の鳥居が建ち、左右2本の主柱の前後を袖柱が支える「両部鳥居」構造になっている。 ![]() 鳥居の扁額「天満宮」。 ![]() 鳥居を潜ると右側に玉垣で囲まれた墓石。 墓石には「奉納 大乗妙典日大〇國卒六部供養佛 享保十・・天」と。 ![]() ムク(ムクノキ) 市指定天然記念物 昭和五十三年三月十五日指定 ニレ科の落葉喬木で、山地に生えるが、人家付近に植えられることもある。 天神社のムクは、根回り5.24メートル、高さ20メートル、樹齢は600年以上と思われる大木で ある。5月ごろ、淡緑色の細かい花が咲き、果実は10月頃に熟し、その果肉は甘いので子供が 食べたりした。 ![]() 奉寄進石手水鉢 元禄六年等の字が読めたが風化して。 ![]() 石燈籠、狛犬の奥に社殿。 ![]() 天神社 御由緒 □ 御縁起(歴史) 荒川の東沿いに位置する石戸宿は、戦国期には、河越から鴻巣・忍を経て上野国に至る街道と、 岩付城へ至る街道上の要地に当たっていた。地内には、太田道灌が岩付城の支城として築いた とも、扇谷上杉氏の家人八右衛門が在城したとも伝える石戸城跡がある。この城は別名を天神 山城とも呼ばれていた。 太田道灌が、河越城を築いた際にも城の鎮守として場内に天神社を勧請したことを考え合わせ ると、当城にも同様に天神社が祀られたのであろう。当社は、かつて荒川の堤外地に祀られて いたとされるので城が廃された時に、堤外に遷されたものが、移転を重ねた結果、現在地に遷 されたと考えられる。氏子の口碑には「天神様は、荒川が流れを変える度に、三度も遷ってき た」とある。社蔵の、最後に現在地に遷座された時のものと思われる木札には「(梵字) 奉改社 地天満宮天下泰平国土安全之所 天明三癸卯歳(1783)三月吉祥日 別当梅林院 放光寺現在 宜範」と記されている。 また、現在の本殿は、彫刻の裏に「宝暦癸酉八月」とあることから宝暦三年(1753)の造立で ある。この内陣には、天満天神座像が奉安されており、社蔵の木札には、「(梵字)奉刻天満大 自在天神像 氏子繁昌守護 宝暦九歳次己卯(1759)十月摩訶吉祥日 別当放光寺」と記され ている。 □ 御祭神と御神徳 ・菅原道真公・・・学問成就、健康増進 □ 御祭日 ・例祭(二月二十五日) ・お日待(十月第二日曜日) ![]() 天神社ささら獅子舞 北本市指定無形の民俗文化財 昭和五十四年三月十五日指定 獅子舞は、古くは「祓い」の信仰から起り発達して今日に至ったと考えられ、三頭の獅子 (関 東では、このような三頭だてが多くみられる) が腰につけた太鼓をたたきながら笛・ササラな どの伴奏で舞い、五穀豊穣・家内安全等を祈願する民俗芸能である。 獅子舞をささら獅子舞というのは、舞いの折に、花笠の役が持つ、丸竹の三分の一くらいをけ ずり、のこぎりのような歯をつけた竹に、もう一つの、先を細かくさいた丸竹をこすりつけて 鳴らす楽器の名から出たものである。 市内のささら獅子舞は、当神社のみであるが、後継者不足等により長い間中断していたが、 昭和五十三年に復活した。 獅子のほか、花笠・笛方等四十名で構成されており、毎十月十五日に上演される。 昭和五十五年十月 北本市教育委員会 ![]() 先端が切られた?市指定天然記念物の ”ムクノキ” を望む。 ![]() 境内の北側に建つ神庫と、右側に「排水工事記念碑」と刻まれた石碑。 ![]() 対の狛犬の後方に天神社の拝殿 ![]() 右側の狛犬、阿形像 ![]() 左側の狛犬、吽形像 ![]() 拝殿前から東側を望むが、右前方には墓地。左側は天神社への参道。 ![]() 拝殿は耐震補強でつっぱり棒が施工されていた。 ![]() 拝殿の扁額は薄くなった手書きの「天満宮」。 ![]() 社殿の右奥に、境内社、石祠が並んでいた。 ![]() 竹林の中を下る道があったので下りることに。タケノコを探すが・・・。 ![]() 竹林の中を下ると広いグランド。 ![]() ここは ”天神下公園” で草野球も可能であると。 ![]() 天神社への道は仮設の手摺、ステップで整備されていた。 ![]() 天神社の社殿裏に根元が広がった ”ムクノキ” 。 ムクノキはアサ科ムクノキ属の落葉高木。東アジアに分布する。単にムク、またはエノキに似 るためムクエノキとも言う。果実は甘酸っぱく、ムクドリなどの小鳥が集まる木で知られる。 ざらついた葉が漆器などの研磨剤に、かたい材は運動具などに利用されると。 ![]() 保護樹木指定標識 保護樹木名 ムクノキ 指定番号 第17号 指定年月日 平成5年12月1日 北本市 ![]() ムクノキを見上げるが樹径、樹高等は?であった。 ![]() 天神社の本殿。 ![]() 天神社の社殿で拝殿はつっぱり棒で耐震補強。 ![]() 苔むした古い墓石が立ち並んでいたが。 ![]() 境内と桜堤通りとの間には墓地が広がっていた。 墓地の西側には新しい赤い頭巾の六地蔵が並んでいた。 ![]() 比較的新しい地蔵で台座には「六地蔵建立 平成八年十二月吉日」と。 ![]() 六地蔵に並んで右側には宝永年代の石仏。 ![]() こちらには中央に「萬霊供養塔」。 ![]() ソメイヨシノが満開であれば・・・。 左の建物は、「放光寺念佛堂」。 ![]() 放光寺 (ほうこうじ) 所在地:埼玉県北本市石戸宿6丁目262 天神社に隣接する天台宗の寺院で、川田谷泉福寺の末である。 新しい門柱には右に「青龍山梅林院」、左に「放光寺」と。 ![]() 石戸宿しだれ桜 日本五大桜のひとつである福島県の ”三春の滝桜” の子孫であるといわれるシダレザクラが見事 で、毎年多くの観光客が訪れる。この日は残念ながら既に咲き終わっていた。 ![]() こちらもつっぱり棒で補強された ”放光寺本堂” 。 ![]() 放光寺本堂の左には「石戸宿集会所」。 ![]() 墓地の入口には古い石仏が並んでおり境内整備時に移設されたのであろう。 真ん中に「板碑」。 ![]() その中に ”放光寺の地獄の番人であるといわれる閻魔王” 。 ![]() 台座には「普門品三千巻 奉讀誦 二世安楽所 心経一千巻」 と。 ![]() 横顔をズームアップ。 ![]() 墓地の南側に放光寺への参道。右奥の桜堤通り沿いに車を止めた。 ![]() 葉ザクラのしだれ桜を見上げる。 ![]() 12:35 駐車場から、しだれ桜、放光寺を振り返る。例年の見頃は3月下旬~4月上旬であると。 ![]() ー 続く ー お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.05.19 03:00:12
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