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カテゴリ:ヒロ散歩
山中城跡の東側へ進む。 4月28日(日) 8:25 元西櫓から架橋を渡り二ノ丸(北条丸)へ進む。 ![]() 二ノ丸虎口と架橋 二ノ丸は東西に延びる尾根を切って構築された曲輪である。尾根の頂部に当たる正面の土塁か ら、南北方向に傾斜しており、北側には堀が掘られ、南側は斜面となって箱井戸の谷に続いて いる。この斜面を削ったり盛土して、山中城最大の曲輪二ノ丸は作られたのであるが、本丸が 狭いのでその機能を分担したものと思われる。二ノ丸への入口は、三ノ丸から箱井戸を越えて こちら側へ渡り、長い道を上ってこの正面の大土塁(高さ4.5m)に突き当り、右折して曲輪に入 るようになっていた。 また、二ノ丸と元西櫓の間の堀には、橋脚台が掘り残されており、四隅に橋脚を立てた柱穴が 検出された。橋脚の幅は南北4.3m、東西1.7mで、柱の直径は20~30cmであった。 復元した橋は遺構を保護するため、盛土して本来の位置より高く架けられている。 平成十三年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会 ![]() 二ノ丸への架橋を渡り西方向を望む。 ![]() 架橋を渡ると右側に二ノ丸櫓台がある。 ![]() 二ノ丸の櫓台から元西櫓を見下ろす。 元西櫓は周囲を深い空堀で囲まれた、640平方メートルの小曲輪である。 ![]() 同場所から西方向の西ノ丸畝堀、西ノ丸を見下ろす。 ![]() 二ノ丸の櫓台から東方向の二ノ丸(北条丸)を見下ろす。 二ノ丸は東西に延びる尾根を切って構築された曲輪である。尾根の頂部に当たる正面の土塁か ら、南北方向に傾斜しており、北側には堀が掘られ、南側は斜面となって箱井戸の谷に続いて いる。この斜面を削ったり盛土して、山中城最大の曲輪二ノ丸は作られた。 ![]() 二ノ丸(北条丸)にはこれから咲くオオムラサキ。 ![]() 南側に傾斜した二ノ丸。 ![]() 二ノ丸の西側櫓台を望む。 ![]() 東側櫓台から西側櫓台を望む。 同場所から南西方向には函南の街並みが見える。 ![]() 二ノ丸櫓台からの本丸北側の空堀を見下ろす。 ![]() 空堀には本丸から北ノ丸への本丸北橋が架かる。 ![]() 本丸西堀に架かる本丸西橋 二ノ丸の東側櫓台から見下ろす。 ![]() 本丸堀と櫓台 本丸と二ノ丸(北条丸)との間の本丸西堀は、土橋によって南北に二分されている。北側の堀止 めの斜面にはV字状の薬研堀が掘られ、その南側に箱堀が掘られていた。堀底や堀壁が二段と なっていたので、修築が行われ一部薬研堀が残ったようである。なお、箱堀の堀底からは兜の 「しころ」が出土した。 土橋の南側は畝によって八区画に分けられ、途中屈折して箱井戸の堀へ続いている。堀底から 本丸土塁までは九メートルもあり、深く急峻な堀である。堀の二ノ丸側には、幅三○~六○セ ンチの犬走りが作られ、土橋もこの犬走りによって分断されていたので、当時は簡単な架橋施 設で通行していたものと思われる。一般的に本丸の虎口(入口)は、このように直線的ではない が特別な施設は認められなかったので、通行の安全上架橋とした。 説明板左手の、標高五八三メートルの地に二ノ丸櫓台(東西一二メートル、南北一〇メートル) がありそれを復元した。 平成十二年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会 ![]() 本丸跡に立つ説明板。 左側は「国指定史跡 山中城跡案内図」。 右側は「国指定史跡山中城跡」で国道沿いの入口にあったものと説明文が同じ。 ![]() 現在地は矢印の「本丸」。 ![]() 本丸の南側下には兵糧庫跡に建つ休憩所。 ![]() 本丸にもフジ棚。 ![]() ここのフジも紫色は満開になっていた。 ![]() いい香りがするので大きなアブが飛びまわっていた。 ![]() 本丸跡 標高五七八m、面積一七四○㎡、天守櫓と共に山中城の中心となる曲輪である。 周囲は本丸にふさわしい堅固な土塁と深い堀に囲まれ、南は兵糧庫と接している。この曲輪は 盛土によって兵糧庫側から二m前後の段をつくり、二段の平坦面で築かれている。 虎口(入口)は南側にあり、北は天守閣と北の丸へ、西は北条丸に続く。 江戸時代の絵図に描かれた本丸広間は上段の平坦面、北条丸寄りに建てられており、現在の藤 棚の位置である。 平成九年十一月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会 ![]() 北ノ丸への本丸北橋。 ![]() 架橋(かけはし) 発掘調査の結果、本丸と北ノ丸を結ぶ架橋の存在が明らかになり、その成果を元に日本大学の 故・宮脇泰一教授が復元したのがこの木製の橋である。 山中城の堀には、土橋が多く構築され、現在も残っているが、重要な曲輪には木製の橋も架け られていた。 木製の橋は土橋と較べて簡単に破壊できるので、戦いの状況によって破壊して、敵兵が堀を渡 れなくすることも可能であり、曲輪の防御には有利である。 平成十三年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会 ![]() 北ノ丸 ![]() 北ノ丸に咲いていたミツバツツジ。 ![]() 北の丸堀 山城の生命は堀と土塁にあるといわれる。堀の深さが深く、幅が広いほど曲輪につくられる土 塁が高く堅固なものとなる。 北の丸を囲むこの堀は豪快である。四〇〇年の歳月は堀底を二m以上埋めているので、築城時 は現況より更に要害を誇っていたに違いない。 城の内部に敵が進攻することを防ぐため、この外堀は山中城全域を囲むように掘られ、水のな い空堀となっている。石垣を用いるようになると、堀の両岸はより急峻になるが、石を用いず これだけの急な堀を構築した技術はみごとである。 平成九年十一月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会 ![]() 北ノ丸の北側の急峻な堀。 ![]() 北側の急峻な堀には杉が林立している。 ![]() 北ノ丸 天守櫓に次ぐ本城第二の高地に位置し、面積も1,920㎡もある曲輪である。 ![]() 本丸に咲くフジ棚。 ![]() フジ棚を見上げる。 ![]() 本丸に咲く野花。 ![]() ズームアップ。 ![]() 本丸の東側に雑木林がありその中に「矢立の杉」が聳える。 ![]() 矢立の杉 (市指定天然記念物) 山中城跡本丸の天主櫓に接して植生しており、樹高三一・五m、周囲の樹木より一段と高く山 中城跡のシンボル的存在である。推定樹齢は五○○年前後といわれ、植生地はスギの生育の適 地であるため樹勢も良好で、目通り四・三七m、枝張りは西側へ一五m、北東側へ八mも展開 し、各枝の葉色もよい。 「矢立の杉」の呼称の由来については、出陣の際に杉に矢を射立て、勝敗を占ったためと『豆 州志稿』の中の記述にある。 平成八年十二月 三島市教育委員会 ![]() 本丸から下り兵糧庫跡へ、休憩所になっている。 ![]() 本丸の土塁を見上げる。 ![]() 兵糧庫跡(ひょうろうこあと) ここは古くから兵糧庫とか、弾薬庫と伝承されていた場所である。中央を走る幅五○cm、深さ 二〇cmの溝は排水溝のような施設であったと考えられ、この溝が兵糧庫を東西二つの区画にわ けていた。西側の区画からは南面する三間(六・七m)、四間(八・七m)の建物の柱穴が確認され た。このことから周辺より出土している平たい石を礎石として用い、その上に建物があったも のと考えられる。 東側の区画からは、不整形な穴が数穴検出され、本丸よりの穴からは、硯・坏・甲冑片・陶器な どが出土している。 平成十三年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会 ![]() 兵糧庫跡の柱穴と大きな穴 発掘調査の結果、この西側の区画から約20個の小穴がほぼ東西南北に並んで検出された。 これらの穴(ピット)のほとんどは、直径50cm、深さ20cm程度で、それぞれ2m ~ 2.2m間隔 の列をなしていた。 周辺より出土した、平たい石を礎石と考えると、これらの穴は建物の柱穴跡と考えられる。 また西北隅、土塁寄りに直径1.5m、深さ2.5mの大きな穴が四基並列して検出された。 これらの大穴は建物の柱穴とはまったく性格のちがうもので、壁面は垂直に整形されており、 底面は平らで特に加工はほどこされていなかった。なお、その用途については不明である。 平成十三年三月 文化庁 静岡県教育委員会 三島市教育委員会 ![]() 8:45 兵糧庫跡は発掘調査後整地され、芝生の中に柱穴跡が残されている。 ![]() ー 続く ー お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.05.25 03:00:10
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