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September 30, 2019
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カテゴリ:気になるTV番組
2019年NHK大河ドラマ 『いだてん~東京オリムピック噺』
第37回の部分的な感想です。

この回は、前半はこれから戦争という時代に突入して
いく日本の様子が描かれ、その中にやっとの思いで
つかんだオリンピック開催をどうしたらいいのか悩む
人々と、オリンピックに出るためにひたすら練習に
打ち込む人々がいました。

そして嘉納治五郎(役所広司さん)は、世の中がどう
いう事態であろうと自分に味方がいなくても、東京で
オリンピックをやることのみに邁進し、その意思は
決して揺らがないものでした。

人生の後半は日本人の体育の向上に力を注ぎ、晩年は
オリンピックの自国開催という夢を実現させるために
全力を傾けてきた嘉納は、その夢の実現を待たずして
この世を去りました。

思えば1月に『いだてん』が始まってから9カ月間、
何かあれば思いつくまま行動してしまう嘉納は、ある
立場の人にしたらまさに迷惑おじさんだったでしょう。

でも自分の欲得とかじゃなく世の中や相手を思っての
行動でどこか憎めず、大らかで社交的で周りに自然と
人が集まる「治五郎、ジゴロー」を、役所広司さんが
見事に演じきってくれました。

終盤、平沢に「人生で一番面白かったこと」を語るとき、
オリンピックの思い出が次々と出てきて、その優しい
楽しそうな表情に思わず死期の近さを感じました。

ラストで嘉納の棺にオリンピック旗がかけられた瞬間、
感動でうるっときました。
私自身も一視聴者として、嘉納治五郎@役所広司さんに
ずっと引っ張られてきたのだと実感しました。


1940年のオリンピックが東京で決まったものの、翌昭和12年(1937)7月7日に
日中戦争が勃発し、戦渦は拡大する一方でした。
そんな中、1940年のオリンピックの準備が進められていくのですが、ベルリン大会に
刺激を受けた嘉納治五郎(役所広司さん)は東京大会を大規模なものにしようとして、
話し合いは一向にまとまらないままでした。



一方国民は日中戦争での勝利を信じて疑わず、街中では支那事変の祝賀行進が行われ、
またトラックの荷台に乗って出征していく若者たちを人々は万歳で送り出しました。



人々の意識が戦争へと向かっていく中、金栗四三(中村勘九郎さん)はオリンピックに
弟子の小松 勝(仲野太賀さん)を出場させるべく東京で練習に励んでいました。
そこへスヤ(綾瀬はるかさん)が子供たちを連れて熊本から上京してきて、久々に
播磨屋で皆が揃い、話がはずむ楽しい時間を過ごしました。



さて個人的なことでは、小松はりくにベタ惚れで、りくもまんざらではない様子です。
スヤから「小松がりくちゃんに惚れとる」と聞かされ、四三は小松が浮かれないよう
練習にますます気合を入れていきました。



拡大していく日中戦争に東京オリンピック開催の危機を感じた副島道正(塚本晋也さん)は、
政府は本気で開催をするのか近衛文麿首相に直談判しました。
会議で副島は「切羽詰まる前に、名誉ある撤退を」と委員の皆に訴えます。
しかし嘉納治五郎(役所広司さん)は「何が何でも開催!」、考えはそれのみでした。



多くの若者が出征していく中、まーちゃん(田畑政治;阿部サダヲさん)率いる水泳陣の
若者たちは葛藤から練習に身が入らず、また政治家となった河野一郎はラジオで国民に
東京オリンピック返上の答弁を訴えていました。
河野の話に激怒して朝日新聞社に乗り込んできた金栗四三にまーちゃんは、自分たち
だって夢と現実が混ざり合った矛盾の中で記事を書いていると話します。



四三は過去、自分の選手としての絶頂期に戦争のためにオリンピック参加が絶たれていて、
あの時の絶望感をひたすら練習に打ち込みむ弟子の小松には味わわせたくないのでした。
戦争になろうが小松を走らせたい、それが四三の強い思いでした。
その思いはまーちゃんはも同じで、自分たちは戦争で勝ちたいのではなく、スポーツで、
オリンピックで勝ちたい、それしかない!という強い願いでした。



オリンピック東京開催が世界中で疑問視されている中、嘉納はエジプトのカイロで開かれる
IOC総会でどう話をしようかと思案しながら神宮競技場にいました。
そんな嘉納にまーちゃんは、今回は潔くオリンピックを返上してほしい、そうすれば
戦争が収まった後でもう一度オリンピックを招致できると頼みこみました。
嘉納も現実はわかっているけど、もう引き下がることができなくなっていました。



そして嘉納は一人でIOCカイロ総会へ。
各国の代表から厳しい批判を浴びせられ、まさに四面楚歌で針のむしろ状態でした。
返す言葉もなく全く情けない限りであると詫びつつ、それでも自分を信じてほしい、
政治とオリンピックは無関係である、逆らわずして勝つ!と皆に訴えました。



昭和13年(1938)春、東京開催が改めて承認され、国民は喜びにわきました。
IOCの委員たちは嘉納の言葉を信じることにしたのでした。
嘉納はカイロからカナダを経由して帰国し、船は5月6日に横浜港に着く予定でした。



嘉納が乗った船は途中で酷いシケに遭い、77歳でも健康には自信のあった嘉納ですが
その時に体調を崩してしばらく伏せっていました。
数日後、嘉納の体調が良くなったので氷川丸の船長がお茶会に招待してくれました。
社交的な嘉納は皆に「人生で一番面白かったことを話してみませんか?」と話題を振り、
会場は楽しそうな明るい笑顔に包まれていました。



そして嘉納自身の「一番面白かったこと」を振り返ったとき、羽田に競技場を作って
予選会をしたときのこと、初めてのオリンピック参加となったストックホルム大会、
ロサンゼルス大会での水泳陣の大活躍と日系人との出会いなど、嘉納は咳き込みながら
走馬灯のようによみがえる思い出を次々と語りました。
同行している平沢和重が「一番は東京オリンピックでは」と振ると嘉納は大喜びして、
「これから一番面白いことをやるんだ、東京で! うん、これこそ一番!」
と嬉しさの興奮を抑えきれない様子で咳き込みながら熱く語りました。



「楽しい時間をありがとう」ーー嘉納は平沢和重(星野 源さん)にそう礼を言って
船室に戻りましたが、回復したかと思われた体調はその後さらに悪化し、嘉納は氷川丸が
横浜に着く2日前に太平洋沖で帰らぬ人となりました。(享年77)
まーちゃんは急ぎ横浜港に駆け付け、船上で嘉納の最期を看取った平沢から、嘉納から
託されたストップウォッチを受け取りました。



嘉納が日本を発つ前に喧嘩別れ状態だったまーちゃんの胸に、嘉納との最後の会話となった
「オリンピックは・・、やる!」という言葉が響きます。
生涯を柔道と後進の育成と人助けと、スポーツとオリンピックに捧げた嘉納でした。
その棺にはオリンピック旗がかけられ、嘉納にふさわしい永遠の旅立ちとなりました。






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Last updated  September 30, 2019 11:24:55 PM


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