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2007/12/22
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カテゴリ:歴史

高句麗族は、いにしえの高令です。

高令とは、殷庶(殷の残党)の三族である高夷、弧竹、令支であり

殷人は後に箕子朝鮮をたてました。従って高令は箕子朝鮮の主流になります。

因みに殷(実際はイシン王国)滅亡の時

殷(イシン)に従ったのは和(か)、陽、伯(はく)、淮(わい)、徐じょ、、丹、高令、宛、シ黄(こう)

周(実際はアッシリア)に従ったのは、易、(姜氏)

高令は後に高車・丁零といって、匈奴に従属する製鉄部族になりました。

匈奴はニ部族で成り立っていました。シウ伊逗氏とシウ刀漫氏です。

伊逗氏は、殷(箕子朝鮮)のミコ王(国常立命)の孫が入って継いだものです。

淮族と伯族のうち、匈奴に合した人々は、よく考慮した後、これを宗としました。

しかし、その後、衰退し、ミコ王の子孫は、しばしば漫氏に養われました。

ミコ王の子孫の冒頓は幼くして異相を嫌われ大月氏に人質とされた後に急襲されました。

冒頓は走り逃れ、迂回して、殷(箕子朝鮮)に助けを求めました。殷はよく外部と相談し、伯族は

密かに匈奴内部から内応しました。その結果、冒頓は匈奴に入って単于となり、漢軍を包囲して

高祖を虜にし、反転して匈奴と殷の間の諸族を追い払いました。そこで殷は安泰になりました。

冒頓単于の死後、伯族はゴビ砂漠に逃げてしまい、箕子朝鮮は滅び、その亡命者であった

馬韓の辰王、卓が地を提供しましたので高令族がやってきたとあります。

匈奴のニ部族の内の冒頓単于系の『シウ伊逗氏』が、高令族ということになります。

『倭人興亡史』第三十七章 辰国の一部分です。

『神祖のあとにシウムス氏(イシン帝国)があった。もと東表国(九州の豊国のこと、

駕洛国・金官国に同じ、サマリアのオッフル国の植民市)のアシムス氏(中臣氏)

と同じであった。シウムス氏に子があり、兄の末をビバシウ氏(ビバイニリ、ウラルトゥ国のこと

ウガヤ王朝)といい、弟の末をカルシウ氏(バハーレン島のカルデラ人)といった。

カルシウ氏は分かれて干来(山東半島のライ夷のこと)となり、二千海をへだてて故国を望んだ。

干来がまた分かれて高令となったという』

箕子国家がカルデア人の基地であったディルムン(バハレーン島)港またはマカン(オマーン)

から大航海によって満州に移動したことを示します。

『神皇紀』は『国常立命の子トヨクムヌが早逝したため、王妃は幼い王子を連れて伊逗氏の王

と再婚した』と述べます。

キンメリはBC7世紀中頃、強大になり、ウラルトゥ王国(伯族)を攻撃して従属させました。

この後、ウラルトゥの一部はアケメネス・ペルシヤに従属しました。

匈奴のキンメリ人に従属したウラルトゥ王朝がウガヤ王朝の初期に該当し

後に扶余となり神武につながる日本皇室のルーツになるのです。

シュメールの女神アラメア(アナト)の名をとったウラルトゥ王アラメを

『神皇紀』の天照大神に比定し、以下51代続き、神武は52代となります。






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最終更新日  2007/12/22 04:58:55 PM
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