テーマ:カクテル大好き!(497)
カテゴリ:カクテルブック
「カクテル(混合酒調合法)」宮内省大膳寮厨司長・秋山徳蔵編(大正13年=1924年=10月15日、東京・国際料理研究所発刊、128頁)
秋山徳蔵(あきやま・とくぞう)氏は、明治21年(1888)8月30日、福井県南条郡武生町(現・越前市)の料理屋の次男に生まれた。旧姓・高森。明治37年(1904)年、東京・麹町の華族会館料理部に就職した後、築地精養軒料理長などを歴任。明治42年(1909)、西洋料理の修業のため渡欧し、約4年間、ドイツ、フランスなどで修業を積んだ。 大正2年(1913)3月に帰国後、東京倶楽部料理部長に就任。同年6月、我が国初の本格的な西洋料理の教科書と言われる「仏蘭西料理全書」を著した。翌7月、秋山俊子と結婚・秋山家に入籍し、秋山姓に。同年10月、宮内省大膳寮厨司長に迎えられた。 宮中晩餐会の料理責任者だったこともあり、酒類への造詣も深かった。大正13年(1924)、日本初のカクテルブック「カクテル(混合酒調合法)」を出版。その後、大正、昭和両天皇の料理番を長くつとめた。昭和47年(1972)10月、83歳の時、宮内庁を依願退職。昭和49年(1974)7月14日、85歳で没。「新フランス料理全書」「料理のコツ」「味の散歩」「味と舌」「テーブルマナーのすべて」など多数の著書を残している。 【おことわり】旧かなづかい、古語的な用語・表現のうち、現在馴染みにくいものは可能な限り現代語法に直しましたが、原則として、原文の良さ・雰囲気を伝えることを重きを置いて紹介していきます。補足的な説明ができる部分があれば、末尾の【注】で紹介していきます。 なお、私の国語的能力の限界もあり、分からない部分は原文のまま紹介するほか、当時のカクテル関係の専門用語で分からないものもそのまま紹介するつもりですが、ご容赦ください。もし何かご存知の方はメール(arkwez@gmail.com)でご教示いただければ幸いです。 *************************************** 1.はしがき 黄金の殿堂座にして、まさに萎(しぼ)みゆかんとするは、今のアメリカンの姿である【注】。 彼等もしかし、広大なる土に恵まりたりとはいえ、世界的な金権を把握するにいたれるまでの昔は、朝(あした)には思うがまま奮闘せんとする活発な精神を振るいおこさんがために、愉快なアルコールを必要した。夕べには、終日の勤労を癒して、新しく明日の力を培養するために、強烈なスピリットを愛した。 わけても、この混成酒は、口を極めて言えば、その調合法が、国家的に研究せられ来(きた)ったものである。わが日本酒の功徳、また大なりと言えども、時間に制限をもたなかった昔ならばいざ知らず、今人のごとく多忙な生活を営み行かねばならぬものには、それはその人々の酒量にもよるべけれど、あまりに量を多く、習慣上あまりに時間を多く過ごされば、精神を発酵せしめるにいたらない憾(うらみ)がある。 われ等は、更新の大国民であらねばならぬが、いまだ、黄金の殿堂を築くべき基礎すらも固まってはいない。大いに国威を発揚すべく、さかんに奮闘をしなければならぬ。この秋、精神を振興し、身体を強壮にするところの、混成酒の調合法を説く。敢えて徒事ならざるを信じ、烈日の下(もと)に、この「カクテル」を編む。 大正十三年八月中旬 編者誌 【注】1920年代初頭、米国は第一次大戦終結後の重工業の発展やモータリゼーションの拡大で経済的好況を享受していた。しかし一方、禁酒法(1920~1933年)の施行に踏み切り、歓楽街は衰退の一途にあった。腕利きのバーテンダーたちは活躍の場を求めて、欧州に渡るしかなかった。1924年と言えば、禁酒法施行から5年目だった。「まさに萎みゆかんとするは」という表現は、禁酒法下で米国内の酒文化が衰退しつつある現状を言ったものと思われる。 なお、この本が出版された大正13年と言えば、前年の大正12(1923)年9月1日に起こった関東大震災の翌年で、東京はまだ復興の途にあった。「贅沢をやめて勤勉につとめよう」と政府が呼びかけていた時節に、秋山氏がこの「カクテル」という書を世に出すことは少々勇気が要ったことと思われるが、「(美味しい酒を飲んで)前を向いて進んでいこう」という国民へのメッセージもあったのではとは考えすぎだろうか。 こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2020/11/11 11:20:51 AM
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