祝 沖縄祖国復45周年
本日は、沖縄が祖国に復帰してから45年の年に当たる。この「祖国復帰」に思いを馳せた先人たちの足跡をたどるにはふさわしい日であろう。本日は、沖縄対策本部公式HPよりかなり長くはなるが、いかなる足跡をたどったのjか。を仲村覚氏の渾身の一文から見ていきたい。沖縄祖国復帰を実現に導いた昭和天皇の「潜在主権方式」のご提案<概要>1951年11月24月、米国務省が対日講話7原則(サンフランシスコ講和条約の草案)を発表しました。そこには、「琉球諸島は合衆国を施政権者と国際連合による信託統治」にするとされていました。その情報を得た沖縄県民は、未来永劫祖国に戻れなくなる危機を感じて立ち上がりました。そして、沖縄の運命を決める講和条約に向けて祖国復帰の署名運動や嘆願を続けていました。しかし、1951年9月8日、サンフランシスコにて日本と戦勝国48カ国と平和条約が締結され、翌年4月28日に公布されました。これにより、沖縄は国際的に米国を施政権者とする信託統治領として位置づけられたのです。これは祖国復帰を望んでいた沖縄県民にとっては大きなショックでした。講和条約とともに復帰は実現かないませんでしたが、この講話条約締結にあたって、沖縄県民の知らない裏では、外務省をはじめとする日本政府は沖縄の主権を失わないように熾烈な外交交渉を戦っていたのです。特に大きな仕事をなされたのは昭和天皇でした。昭和天皇がご連合国に提案された、「施政権は米国に租借するが主権は日本に残す」という「潜在主権方式」です。講話条約締結では、「日本は沖縄の潜在主権を持つ」という合意を得ていたがために、数多い国際紛争の中、わずか20年後の1972年に沖縄の祖国復帰を実現することができたのです。■沖縄祖国復帰を実現に導いた昭和天皇の「潜在主権方式」のご提案昭和天皇や外務省の沖縄の主権を守るための戦いが見えない国民目線で、終戦からサンフランシスコ講話条約までの流れを追っていきます。■終戦直後の自治政府の始まり(沖縄諮詢会)玉音放送にてポツダム宣言の受諾と戦争の終結を国民に発表さらた8月15日、沖縄県民は玉音放送を聞くことができませんでした。ラジオの電波が届かないからです。 同日、沖縄では琉球列島米国軍政府の招集により、崩壊した行政機関の編成が始まっていました。各地区収容所から124名の代表が石川市に集って、中央機関の組織を申し合わせました。同20日、第二回準備委員会を開き諮詢委員候補者24名の中から選挙の結果、15名の委員が選出され、正式に沖縄諮詢委員会として発足しました。これは、沖縄戦による沖縄県庁解体後、沖縄本島における最初の行政機構であり、以後、1946年に「沖縄民政府」が創設されるまで、米軍政府と沖縄諸島住民との意思疎通機関としての役割を果たしました。行政機関といっても専門の庁舎は存在せず、食料の配給が主な目的での管理委員の自宅を事務所として利用していました。■沖縄上陸と同時に「琉球列島米国軍政府」を開設した米軍(1945年4月5日)終戦後の沖縄は、米軍の政府の下に自治行政組織を置く形で復興が始まりました。では、沖縄の軍政府はいつ設立されたのでしょうか?それは、実に早く、沖縄に上陸直後の4月5日に設立されています。つまり、ポツダム宣言を受諾する前であり、地上の戦闘が本格化する前に「琉球列島米国軍政府」が設立されたのです。その根拠となるものが、「米国海軍軍政府布告第1号」です。太平洋艦隊司令長官ニミッツ海軍元帥の名で布告されたので通称「ニミッツ布告」と呼ばれています。この布告は、日本政府の全ての行使権の行使を停止し、南西諸島及び近海並びにその居住民に関するすべての政治及び管轄権並びに最高行政責任が、占領軍司令官兼軍政府総長、米国海軍元帥であるニミッツの権能に帰属すると宣言するものでした。ニミッツは、これを沖縄本島への上陸を開始した4月1日に布告しそのわずか4日後に軍政府を設立したのです。これは、ポツダム宣言の執行のために設立されたGHQとは異なった性質のものです。 ■「琉球列島米国軍政府」の設立は、本土上陸をスムーズに遂行するため沖縄での迅速な軍政府の設立は、日本本土への上陸作戦の遂行に目的があったようです。あまり知られていませんが米軍は、沖縄戦の遂行と共に「ダウンフォール作戦」という名の日本本土上陸作戦の準備が進めていました。この作戦は、占領した沖縄の基地を拠点として九州南部の宮崎に部隊を上陸させる「オリンピック作戦」(11月1日予定)、そして、九州に確保した航空基地を利用して関東地方に部隊を上陸させる「コロネット作戦(1946年3月1日予定)」からなっていました。この作戦を遂行するためには、沖縄の迅速な基地化が必須であり、そのためには沖縄住民も基地運営の労働力として利用を考えていたのだと思います。布告とはいっても実際は、官民ともに戦闘の真っ最中ですので、ビラを配ったとしても素直に受け取る人はいません。軍政府の実態は、捕虜収容所の管理だったと考えられます。実際に、沖縄の戦後の自治行政の組織化も前述のように捕虜収容所から始まりました。■共産主義勢力の台頭により軍事拠点の重要性が増していく沖縄終戦時、すでに沖縄では広大な米軍基地が建設されていましたが、米国内部では、沖縄を日本から分離占領したいマッカーサー等の軍部と日本へ返還するべきと考えていた国務省と意見が対立しワシントンは方針を決められないまま数年を費やしてしまいます。そのため、沖縄の軍政府は中長期的な予算を計上することができず本格的な基地建設も民政の向上のための投資も長期的計画を建てることができませんでした。渡航の自由も貿易の自由も無く経済的に最も厳しく、更に大学も無いため高等教育を受けるチャンスもありませんでした。その後、急速に国際情勢は変化していきます。1947年 3月12日 トルーマンドクトリン アメリカの対ソ基本政策である「封じ込め政策」を宣言したもので、冷戦の宣戦布告となった。1949年10月 1日 中華人民共和国 共産主義政党による一党独裁国家である中華人民共和国を樹立。1950年 6月25日 朝鮮戦争勃発 朝鮮半島の統一支配を目論む北朝鮮が38度線を越える軍事侵攻に踏み切った。1950年 8月10日 警察予備隊発足 アメリカ軍の日本駐留部隊が朝鮮半島に出動することとなった空白を埋めるため創設。■サンフランシスコ講話条約と沖縄の主権対日講話条約の交渉が進み始はじめ、アメリカの対日平和条約に関する七原則が発表されます。<1950年>11月24日 アメリカの対日平和条約に関する七原則 <アメリカの対日平和条約に関する七原則(1950年11月24日)>三,領土 日本は,(a)朝鮮の独立を承認し,(b)合衆国を施政権者とする琉球諸島および小笠原諸島の国際連合による信託統治に同意し,(c)台湾,澎湖諸島,南樺太および千島列島の地位に関する,イギリス,ソヴェト連邦,カナダ,合衆国の将来の決定を受諾しなければならない。条約発効後一年以内に何の決定もなされない場合には,国際連合総会が決定する。〔日本は,〕中国における特殊な権利および権益を放棄しなければならない。対日平和条約に関する七原則が発表されると沖縄では、急速に復帰運動が盛り上がってきました。<1951年>4月29日 日本復帰促進期成会(初の復帰運動組織)結成、復帰署名運動が目的5月20日 日本復帰署名運動開始。8月20日 署名運動終了。署名該当者数276677名のうち 199356名が署名、有権者の72.1%。6月28日 沖縄青年連合会(現沖青協)を主体に「日本復帰促進青年同窓会」を結成復帰署名運動に協力。7月10日 日本政府、講話条約案を公開8月 1日 奄美大島で復帰要求波状ハンガーストライキ8月25日 8月26日の両日に分け、嘆願書と共に復帰署名簿は、青田全権、ダレス特使宛発送。日本復帰期成会はサンフランシスコ講和条約に反対し、沖縄の即時復帰の嘆願書と署名簿を講和会議参加国全権に送付しました。 8月28日 群島知事、同議会は吉田首相、ダレス米特使、講和会議議長宛に日本復帰要請を打電しかし、日本復帰期成会の署名や嘆願は叶うこと無く9月8日には、サンフランシスコにて対日講和条約が締結されてしまいました。<サンフランシスコ平和条約(日本国との平和条約(1951年9月8日)>第三条 日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。サンフランシスコ講話条約締結時、多くの沖縄県民は祖国に復帰の願いが実現する事ができず落胆しました。しかし、その後21年後、沖縄は祖国復帰を果たしました。沖縄が祖国復帰できたのは、米国務省も第三条の解釈で沖縄に対する主権が日本にあるという事を認めたからです。実は、この提案を真っ先に行っていたのが昭和天皇だったのです。1947年9月19日宮内庁御用掛の寺崎英成は、日本橋三井ビルの3階のシーボルドGHQ政治顧問を訪問しました。その目的は、琉球諸島の将来と、米軍による沖縄の軍事占領を継続する必要性に関して天皇の考えを伝える事にありました。シーボルドがマッカーサー宛に送付した覚え書きが残っています。<シーボルドがマッカサー司令官宛にまとめた寺崎氏との会談メモ(1947年9月20日)>Mr. Hidenari Terasaki, an adviser to the Emperor, called by appointment for the purpose of conveying to me the Emperor's ideas concerning the future of Okinawa.Mr. Terasaki stated that the Emperor hopes that the United States will continue the military occupation of Okinawa and other islands of the Ryukyus.In the Emperor's opinion, such occupation would benefit the United States and also provide protection for Japan. The Emperor feels that such a move would meet with wide spread approval among the Japanese people who fear not only the menace of Russia, but after the Occupation has ended, the growth of rightist and leftist groups which might give rise to an "incident" which Russia could use as a basis for interfering internally in Japan.The Emperor further feels that United States military occupation of Okinawa(and such other islands as may be required) should be based upon the fiction of a long-term lease -- 25 to 50 years or more -- with sovereignty retained in Japan. According to the Emperor, this method of occupation would convince the Japanese people that the United States has no permanent designs on the Ryukyu Islands, and other nations, particularly Soviet Russia and China,would there by be stopped from demanding similar rights.As to procedure, Mr. Terasaki felt that the acquisition of "military base rights" (of Okinawa and other islands in the Ryukyus) should be by bilateral treaty between the United States and Japan rather than form part of the Allied peace treaty with Japan. The latter method, according to Mr. Terasaki, would savor too much of a dictated peace and might in the future endanger the sympathetic understanding of the Japanese people.【日本語訳】宮内庁御用掛の寺崎英成は、沖縄の将来に関する天皇の考えを伝えるため来庁しました。 寺崎氏は天皇が米国が沖縄と琉球の他の島の軍事占領を継続するよう望んでいると述べた。 天皇の意見では、そのような占領は米国の利益となるとともに日本に防衛力を提供する事にもなる。 天皇が思うにそうした措置は日本の人々の中で広く受け入れられるだろう。日本国民ロシアの脅威を恐れているばかりでなく、占領が終わった後に右翼や左翼団体が台頭し、日本に内政干渉するための根拠としてロシアが利用しうるような「事件」を引きこすのではないかと懸念している。天皇はさらに沖縄(および必要とされる他の島)の米国軍事占領は、日本に主権を保持しながら25年から50年以上の長期租借という疑制基づいて行われる必要があることを感じている。天皇によると、この占領の方法は、日本国民に米国が琉球諸島での永久的な計画が無い事を納得させ、他国、特にソビエトや中国による同様の権の要求を封ずる事がであろう。手続きに関しては、寺崎氏は"軍事基地権"(沖縄と琉球の他の島の)の取得は、日本と連合国の平和条約の一部ではなく、むしろ米国と日本の二国間租借条約によるべきだと感じた。寺崎氏によれば、前者(日本と連合軍の平和条約)の方式は、押しつけられた講和という色合いが強すぎ、近い将来日本国民の好意的理解を危うくする恐れがあるという。また、几帳面な事にシーボルドは二日後の9月22日には国務省に送付しています。<シーボルドが国務省に送付した昭和天皇のメッセージ>It will be noted that the Emperor of Japan hopes that the United States will continue the military occupation of Okinawa and other islands of the Ryukyus, a hope which undoubtedly is largely based upon self-interest. The Emperor also envisages a continuation of United States military occupation of these islands through the medium of a long-term lease. In his opinion,the Japanese people would there by be convinced that the United States has no ulterior motives and would welcome United States occupation for military purposes.【日本語訳】注目すべきは、日本の天皇は、米国が沖縄と琉球の他の島々の軍事占領を継続することを期待していることです。これが主に国益に基づいた希望であることは疑いがない。天皇はまた、中長期の租借形式でのこれらの島々の米国の軍事占領の継続を想定している。天皇の意見では、日本の人々は(その方法により)、米国が不純な動機を持っていない事を確信し、軍事目的のための米国の(沖縄)占領を歓迎するでしょう。9月30日、この天皇メッセージは、講和条約の草案の作成作業を行っている国務省極東局に届きました。この日、極東局のボートンは、琉球における米軍基地は、「信託統治」の代わりに基地の「租借」で米国の安全保障の目的を果たせるか」とうテーマで軍部と国務省の代表者に提案しました。しかし、軍部からは国連の信託統治理事会の査察と管理が不要な「戦略的信託統治」を要求するべきで「信託統治」も「租借」も不十分だ拒否されてしまいました。軍部は、決して沖縄を他国の軍事基地として使わせてはならないという決意があり、国連の理事会の承認が必要だと、ソ連が拒否権を発動する危険性を避ける必要があったのです。その後も、米国政府では、膨大なエネルギーを費やして沖縄問題について合意形成の作業が進められていきます。「あくまでも主権を日本に残しながら、沖縄の「軍事基地権」を米国に提供する」という」昭和天皇のお考えは、後に米国務省極東局から、講話条約の米国全権ダレス特使へと引き継がれていきます。■日本を共産主義国から守り、沖縄返還の道を開いた昭和天皇のご提案この天皇メッセージのメモですが、沖縄、日本、そして日米同盟の未来を驚くほど深く洞察されたご提案だと思います。要点を列挙してみます。<昭和天皇のご提案のまとめ>(1) 米国が沖縄の軍事占領を継続することを望む。 =>目的:米国の利益になると同時に日本にロシアの脅威に対する防衛力を提供する。 =>目的:占領が終わった後の、左翼・右翼団体が事件を起こしそれをベースにソ連が内線干渉することに備える。(2) 米国の沖縄占領は、日本に主権を残し長期租借という形で行う。、 =>目的:米国が永久占領する野心がない事を日本国民に示し理解を得る。(3) 日米の二国間条約で締結する。 =>目的:ソビエトや中国が日本への進駐を要求することを阻止できる。昭和天皇のご提案は、ソ連の日本侵略を最も警戒されていたことがわかります。1947年9月の時点では、日本の戦後復興の最大の敵は、米国ではなく共産主義勢力だと見抜かれていたのです。また、講話条約の締結の方法についても鋭い洞察をされていました。連合国と平和条約を交わした場合、他国も米国と同じ権利を要求してくるから危険だと見抜かれ日米の二カ国での条約締結を提案されていました。ソ連や中国に分割占領される危険性を回避されたのです。さらに、60年安保闘争や70年安保闘争が起きることを予測されていた文章も記載されています。また、昭和天皇は、占領が終わったあとに勢力が拡大した左翼や右翼団体が事件を起こし、それを土台にソ連が内政干渉始めるのではないかと心配をされていたようです。終戦直後に日本にコミンテルンが入り込み、共産革命を狙っている事も把握されていたことが伺えます。この事実から、昭和天皇は、当時のどの日本の政治家よりも、戦後復興における日本の安全保障の危機、共産勢力の工作の危機を正しく見抜かれていたのではないかと思います。しかし、沖縄を米国の施政権下に置くというのは苦渋の決断だったのだと察します。その思いは、崩御されるまで持ち続けられていたのです。■サンフランシスコ講和条約の締結と沖縄の潜在主権サンフランシスコ講話条約は、1951年9月8日に全権委員によって署名され、11月18日に国会により承認(批准)、翌19日に天皇が批准書を認証し、11月29日に批准書をアメリカ合衆国政府に寄託しました。そして、翌年の1952年4月28日に発効するとともに「昭和27年条約第5号」として公布されました。では、以下、その講和条約の中の沖縄を米国の施政権に置くことになった第三条の条文を示します。<サンフランシスコ平和条約(日本国との平和条約(1951年9月8日)>第三条日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。講和条約の3条には「潜在主権は日本にある」という文言を見つけることはできません。その根拠を探したところ、サンフランシスコ講話会議のダレス米国全権とケネス・ヤンガー英国全権利の講義にあるこ事がわかりました。まずは、ダレス全権の演説です。英語の原文と日本語訳を掲載いたします。<サンフランシスコ講話条約 ダレス米国全権演説(1951年9月5日)>3条関連部分を抜粋Article 3 deals with the Ryukyus and other islands to the south and southeast of Japan. These, since the surrender, have been under the sole administration of the United States.Several of the Allied Powers urged that the treaty should require Japan to renounce its sovereignty over these islands in favor of United States sovereignty. Others suggested that these islands should be restored completely to Japan.In the face of this division of Allied opinion, the United States felt that the best formula would be to permit Japan to retain residual sovereignty, while making it possible for these islands to he brought into the United Nations trusteeship system, with the United States as administering authority.<日本語訳>第三条は、琉球諸島及び日本の南及び南東の諸島を取り扱っています。これらの諸島は、降伏以降合衆国の単独行政権の下にあります。若干の連合国は、合衆国主権のためにこれらの諸島に対する主権を日本が放棄することを本条約の規定することを力説しました。他の諸国は、これらの諸島は日本に完全に復帰せしめられるべであると提議しました。連合国のこの意見の相違にも拘わらず、合衆国は、最善の方法は、合衆国を施政権者とする合衆国信託統治制度の下にこれらの諸島を置くことを可能にし、日本に残存主権を許すことであると感じました。続いて、英国全権ケネス・ヤンガーの演説です。<サンフランシスコ講話条約 ケネス・ヤンガー英国全権演説(1951年9月5日)>3条関連部分を抜粋琉球及び小笠原諸島に関しては、この条約は、これらの島嶼を日本の主権の外においては居りません。この条約は、北緯二十九度以南の琉球諸島を引き続き米国政府の管轄下に置くこと、即ちこれらの琉球諸島の中、日本に最も近い部分は、日本の下に残して置くばかりでなく、日本の行政権の下に置いているのであります。そして、日本の全権、吉田総理大臣が受諾演説を日本語で行い、両全権の言葉を受けとり、主権が日本に残ることを表現しています。そして、この演説原稿に目を通した白州次郎が「沖縄返還」の表現を入れるように外務省担当者に提案したようです。<[文書名] サンフランシスコ平和会議における吉田茂総理大臣の受諾演説(1951年9月7日)>奄美大島、琉球諸島、小笠原群島その他平和条約第3条によつて国際連合の信託統治制度の下におかるることあるべき北緯29度以南の諸島の主権が日本に残されるというアメリカ合衆国全権及び英国全権の前言を、私は国民の名において多大の喜をもつて諒承するのであります。私は世界、とくにアジアの平和と安定がすみやかに確立され、これらの諸島が1日も早く日本の行政の下に戻ることを期待するものであります。このように、サンフランシスコ講和条約の条文には、「潜在主権」という文言は記載されていませんが、講和会議の演説では、「潜在主権」という言葉をしっかりキャッチボールするように確認し合い、明確なコンセンサスがとれているのです。■岸信介首相に引き継がれた沖縄返還交渉そして、それから約6年後の総理大臣、岸信介にバトンタッチしていきます。佐藤総理大臣が亡くなった直後の岸元総理へのインタビューで、「潜在主権」について述べている記事があります。<岸信介インタビュー(1975年)>「その時の一つの問題は沖縄問題で、いままで非公式な形ではアメリカも日本も潜在主権を認めていたけれども、文書にして、それをはっきり公式に声明したのが岸・アイク声明(昭和三十二年六月二十一日)なんだな。」「その時私としては沖縄に潜在主権があり、将来日本に返還されることを考えると、沖縄に対してわが国としても、その民政について予算をふやして、いろんな施設を作るべきだと思ってそれを提案したんですよ。ところがだな、ダレス(国務長官)はだよ、これ(沖縄)はいまは完全なアメリカの施政下にあって、日本の潜在主権は認めるけども、日本政府が直接に予算を出すということはいかんというんだ。もしこうして欲しいということがあるなら、アメリカに希望を日本が出し、それに応ずるかどうかは統治権を持っている米側で検討するというんだよ。こういう具体的な議論がダレスと私の間でかなりやりとりされた結果、一部日本政府がカネ(予算)をだしてもいいという根拠がはじめてできたんですよ。」(書籍「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ッス」 227ページから引用)このインタビュー記事で述べられているアイゼンハワー大統領との共同声明がこちらです。 <岸信介首相とアイゼンハワー米大統領との共同コミュニケ(1957年6月21日)>総理大臣は,琉球及び小笠原諸島に対する施政権の日本への返還についての日本国民の強い希望を強調した。大統領は,日本がこれらの諸島に対する潜在的主権を有するという合衆国の立場を再確認した。しかしながら,大統領は,脅威と緊張の状態が極東に存在する限り,合衆国はその現在の状態を維持する必要を認めるであろうことを指摘した。大統領は,合衆国が,これらの諸島の住民の福祉を増進し,かつ,その経済的及び文化的向上を促進する政策を継続する旨を述べた。このように、歴代の総理が「潜在主権」を切り口にして、米国への沖縄返還への要求を継続していきました。。本格化な進展が始まるのは、1965年(昭和40)年8月19日の佐藤総理大臣の訪沖からです。それは、戦後21年目にして初めての総理大臣の沖縄訪問だったのです。<佐藤栄作内閣総理大臣の沖縄訪問に際してのステートメント(1965年8月19日)>沖縄同胞のみなさん。 私は、ただ今、那覇飛行場に到着いたしました。かねてより熱望しておりました沖縄訪問がここに実現し、漸くみなさんと親しくお目にかかることができました。感慨まことに胸せまる思いであります。沖縄が本土から分れて二十年、私たち国民は沖縄九十万のみなさんのことを片時たりとも忘れたことはありません。本土一億国民は、みなさんの長い間の御労苦に対し、深い尊敬と感謝の念をささげるものであります。私は沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとつて「戦後」が終つていないことをよく承知しております。これはまた日本国民すべての気持でもあります。 私が、今回沖縄訪問を決意いたしましたのは、なによりもまず、本土の同胞を代表して、この気持をみなさんにお伝えしたかったからであります。 私は、去る一月のジョンソン米国大統領との会談で沖縄の施政権をできるだけ早い機会に返還するよう強く要望しました。また、沖縄住民の民生安定と福祉向上のため日米相協力することについて意見の一致をみたのであります。私はこの基本的立場に立つて、沖縄の現実の姿を、直接この目で確かめ、耳で聞き、できるだけ広く深く当地の実情をつかんで、これを日本政府の沖縄施策のなかに具体的に生かしたいと存じます。そしてこのことは私の責任であるとともに、沖縄のみなさんの期待にこたえる所以であると考えます。私は、ここに、沖縄九十万同胞の心からの歓迎に対し深く感謝するものであります。また、ワトソン高等弁務官、松岡行政主席はじめ関係者の温いお出迎えに対し、厚くお礼申し上げます。沖縄祖国復帰協議会の沖縄返還運動は、60年代後半には反米闘争、反基地闘争と化していきますが、多くの方の献身的な努力により昭和47年5月15日、沖縄の祖国復帰が実現いたします。昭和47年5月15日、午前10時30分、日本政府主催の沖縄復帰記念式典が東京九段の日本武道館で、沖縄県主催の沖縄復帰記念式典が那覇市民会館で開幕しました。式典は日本武道館と那覇市民会館をカラーテレビ放送でつなぎ、東京と那覇の両会場の飾りつけも同じにして同時に行われました。東京会場には天皇・皇后両陛下もご出席され、天皇のお言葉は那覇会場にもテレビ中継されました。<昭和47年(1972年)5月15日沖縄復帰記念式典での昭和天皇のおことば >「本日、多年の願望であつた沖縄の復帰が実現したことは、まことに喜びにたえません。このことは、沖縄県民をはじめわが国民のたゆまぬ努力と日米両国の友好関係に基づくものであり、深く多とするところであります。」「この機会に、さきの戦争中および戦後を通じ、沖縄県民の受けた大きな犠牲をいたみ、長い間の労苦を心からねぎらうとともに、今後全国民がさらに協力して、平和で豊かな沖縄県の建設と発展のために力を尽くすよう切に希望します。」沖縄返還外交史年表1962年2月1日 施政権返還に関する琉球立法院決議および日本政府見解1962年3月9日 沖繩及び小笠原諸島における施政権回復に関する衆議院決議1965年1月13日 佐藤栄作総理とジョンソン大統領の共同声明1965年8月19日 佐藤栄作内閣総理大臣の沖縄訪問に際してのステートメント1965年12月20日 琉球列島の管理に関する行政命令再改正のジョンソン大統領の行政命令1967年11月4日 佐藤総理大臣訪米に際し沖縄の施政権返還を要求する決議案1967年11月15日 佐藤栄作総理とジョンソン大統領の共同コミュニケ1968年1月31日 琉球政府主席公選に関する行政命令改正のジョンソン大統領の行政命令1969年11月21日 佐藤栄作総理とニクソン大統領の共同声明1969年11月21日 沖縄百万同胞に贈ることば(佐藤内閣総理大臣)1969年11月22日 沖縄返還に関する屋良朝苗琉球政府主席声明1971年6月17日 沖縄返還協定調印1972年1月7日 佐藤栄作総理とニクソン大統領の共同発表1972年5月15日 沖縄県施政権返還以上太字部等編集し引用沖縄の祖国復帰。これは、日本人全ての強い願いであった。とりわけ、沖縄県民にとっては、祖国復帰を果たすまでは「根無し草」である。こうまでいっていたのである。「祖国」という言葉をたどる時、我が国においては、この「沖縄祖国復帰運動」にまでさかのぼらなければならないのかもしれない。しかし、「祖国とは何か?」を考える際に、これらの多くの先人たちの思い。が回答を示してくれるのではないだろうか。本日は、晴れあるいは曇りの地域の方々にはぜひ、国旗を掲揚し、当時に思いを馳せ、お祝いしていただきたいと思う。文責 上田 和哉