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2016.12.27
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テーマ:国を憂いて(3492)
カテゴリ:カテゴリ未分類
「グローバル化」時代の終焉とは何を意味するのか?

我々は、今後この課題をに真正面から向き合っていかなければならない時を迎える。

まず本日は結論から先に述べておきたい。
我が国に今求められているのは

英語より国語、日本史より国史、民主主義より武士道精神

ではないかと思っている。

勿論、これらの方向に今直ぐに舵を切ったとしても、国家として方向がかわるにはタイムラグがある。タイムラグがあるからこそ、今直ちに取り組まなければならないものと思う。

我が国の長い歴史、伝統が育み、先人達が、大切に守り透してきた「ローカリズム」が向き合い、変更する勇気を与えてくれるであろう。

我が国は、再来年、といってもあとわずかで来年ということになるのだが平成三十年、明治維新から百五十年を迎える。

この百五十年というものは、わが国の存亡がかかった中で、急速に「西洋化」が推し進められた時間である。そうしなけらば、わが国は他のアジア諸地域同様、西洋列強の植民地になっていた可能性がある。

したがって「西洋化」というのは、独立を守り通すには「他策なかりし選択」でしかなかったものと思う。

だが、その急速に西洋化を推し進める中で、明治の先人達は、「わが国には他に劣らぬ道徳を持っている」という気概を持っていた方々は少なくない。「文明化」という「技明」をやむなく選択せざるを得ないとしても、「道徳」にかんしては他に学ぶ必要はない。そのように考えた方々が多くいたのである。

だからこそ、わが国の「精神文明」は残された。といってもよいだろう。その精神文明の中核に位置したのが「武士道精神」である。

我が国の敗戦後、GHQは我が国弱体化を目的としてこの「武士道精神」を徹底的に弾圧の対象にした。彼らは「武士道精神」が我が国を好戦的にさせる思想だと勘違いしたのである。

しかし、武士道精神とは、自らの欲望を徹底的に抑制するものであり、彼らの考えは完全に的外れな指摘である。

その影響もあり、わが国では「欲望を抑制する国民」つまりは成熟した国民が育ったのである。この武士道精神は西洋における「騎士道」ともかなり重なりあう部分がある。だが西洋においては、「フランス革命」とそれに続く「ナポレオン戦争」によって「人々の欲望が毒花のように花開き」、騎士道なるものはまさに「遺産」となってしまった。

その上にまかれた種が「西洋民主主義」である以上、民主主義が「抑制される民意」つまりは「輿論」ではなく「世論」という感情表現が重きをなす花が咲くのは必然のことである。

経済学などでは「欲望」などというものは一定の程度に達すれば、満足を得て、それ以上求めないという前提に立っての「新自由主義」などにみられる学説となって表れているが、残念ながら人間の欲望には天井がないようである。数百億の財産があっても、それ以上の財産を追い求める。

だからこそ、「新次週主義」なる学説は、机上の空論でしかないのである。

万一、そのような学説を現実化させようとするならばその前提に立つべきものは「騎士道精神」あるいは「武士道精神」よりほかにはないであろう。

我が国では、欧米あるいはシナほど格差の拡大がみられないのは、「武士道精神」がまだ心の中に残っているからであると共に、農耕文明として、格差の拡大は、農耕には適さないという長い伝統文化のためと思われる。

しかもわが国には「フランス革命」がなく我が国で起きたのは「明治維新」というよりも「王政復古」だったのである。仏国は、国王を追放した、結果として求心力を持つ存在が消えてしまった。民族を束ねる存在を自ら捨て去ったのである。それを大統領に置き換えようとしても、一度失ったものは帰ってこない。自らのアイデンティティーを確認する存在を自ら葬り去った自業自得の結果である。

我が国は、決してそうなってはならない。「現在の価値観」だけが素晴らしいものではない。「過去の価値観」これを継承できるものはしておかなければならないのである。

私には、欧州は愚かな選択をしたものだと私は考えるが、彼らには彼らなりの言い分もあろう。

しかし、「フランス革命」について我々は、もっと知るべきであろうし、「ナポレオン戦争」とその戦後処理についても大いに学ぶべきものと思う。ナポレオン戦争の戦後処理はナポレオンが処刑されずにエルバ島に流されるだけで終わったように「国王の戦争」のよすがが残った最後の戦後処理だといってよい。

わが国では「民主主義」に対して批判することはどうも「タブー」のように考えている人が少なくないが、「民主主義」いや国民主権といってもよいであろう。そのために「戦争」の形態も「戦後の形態」も大きく変化した。「国王の戦争」は確かに国民にはその決定に従うのみであったが、戦死者にはあまり一般国民が見受けられない。一方、「民主主義」後の戦争は、国民主権という美名の下、「欲望・憎悪・嫉妬」が幅を利かして、被害も格段に増加し、その戦後処理は極めて敗戦国にとって厳しいものとなっていった。

戦争の被害などからみれば、はるかに「止め時」も国王自身が決められ、しかも各国王間での暗黙の了解もあったがために、かなり穏健な戦後処理となっている。

「民主主義」によってその被害は拡大した。といっても過言ではなかろう。
勿論次にあげるのが「武器の進化」であろうが。。。

我が国の戊辰戦争や西南戦争においても、幕府軍、薩摩軍は、「鉄砲」による銃撃を潔いものとはしていない。これはフランス革命においてもみられる。当時の国王軍は傭兵が主体であったとはいえ、それぞれ、水かっらの名前を名乗ってから一対一で戦うスタイルが残っていた。それに引き替え、市民軍は「武器」に頼り、県の届かない距離から発砲した。

戦争のスタイルも変わったのである・

そしてわが国では、フランス革命について最大の誤解をしていると思われるのが「軍服を着る」ということである。「国王の軍隊」である場合には、一般の国民には「軍服を着ることはできなかった」フランス革命後それができるようになり、ナポレオン戦争では、そのメリットを最大限生かした戦いで連戦連勝を重ねた。

「軍服を着る」というのは「権利」と理解されるべきなのである。わが国では「徴兵制」などと言いながら「義務」である部分だけが取り上げられるが、断じてそうではない、西南戦争における新政府軍がそうであったように「軍服を着る」ことは権利なのである。そしてフランス革命によってもたらされた「選挙」というシステムにおける投票という権利。この二つの権利を国民が得た、総会sy買うすべきなのである。そしてこの二つの権利は関連する。

現状国民の中には納税と投票権がリンクしているかのように考える愚かな人もいるようだが、断じてそうではない、「軍服を着る権利を持つ人」と「投票権」がセットなのである。なぜなら、戦争をするかどうか、つまりは自ら軍服を着なければならないかどうかを決定するのは国民ということになっている以上、戦争をするかどうか決めるのは、国民以外にはない。という考え方である。

我が国の「明治維新」をフランス革命と比較する方々が少なくないが、一致点とともに相違点も見ていかなければならない。

そしてその相違点の中に、わが国の先人たちが守りとしたものがある。のである。

ただし、勘違いしていただいては困るのだが
この「ローカリズム」に関しては決して「優劣」を争うものでも、序列化を促すものでもない。

各々が長い年月を紡ぎ、伝統をつなぎながら現在の価値観をはぐくんできたことに、「互いに敬意を表する」ということに主眼が置かれるべきなのである。

わが国では「西洋化」かぶれの影響もあり、「西洋」を評価基準として、我が国並び、その他の地域の「ローカリズム」を低く評価しようとしがちである。

私が言うところの「グローバル化の終焉」とは、決して「経済におけるグローバル化」の大波を指すものではなく、「西洋文明」を基準としてものを考える風潮に、大きな変化が起きている。その基準自体に疑問符が付けられている。といった意味である。

とはいえ、それが「中華思想」などのように、「中華」が絶対的な評価基準になるようなことは、「グローバル化」の一変形にすぎない。「西洋」という基準に代わり「中華」という基準を置き換えようとするだけなのである。つまりは、覇権争いでしかない。「西洋化」も「中華」も含めて、一つの基準で物事を評価する動きに変化が起きている。それが「グローバリズムの終焉」の正体である。

イスラム教についての捉え方は、わが国でもキリスト教文明の影響を強く受ける欧米の影響からかなり偏向したものとなっている。「遅れた宗教」などという捉え方をする方が多いのではないだろうか。勿論さらに偏向が進むと「テロ」と結びつけ「怖い宗教」という捉え方をする方もおられよう。

今後、イスラム世界もまた「ローカリズム」として捉え、正当な評価を今後下していかなければならない。

それは明治維新、フランス革命などについても、見直すべき時が来ているものと思う。

来年一年、「明治維新」について考える。
これが来年の私のブログの大テーマということになろう。
今年は「祖国」にこだわってきたつもりである。

文責 上田 和哉





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Last updated  2016.12.27 11:51:59
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