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カテゴリ:少年老い易く
このブログを開いて もう十何年にもなり、本編もその続きとして書いているが
カテゴリー:『少年老い易く』として55遍も書き連ねた、それなりに元気だった June 30, 2006 に H氏の見聞きした戦中戦後史(その5)と題して、詳しく 上記カテゴリー中に記入した事があり、概ねこんな内容を書いたことを 思い出している・・・・ H氏はその当時 写真の子供とほぼ同じ年恰好の満3歳になったばかりで、北九州・小倉にあった 日本陸軍小倉兵器処の南門にほど近い篠崎地区の実家で6人兄弟の末っ子として過ごしており、 長男は丁度少年とほぼ一緒の旧姓中学2年生として 学業よりむしろ 勤労奉仕の日々を過ごしていた。 ヒロシマに原子爆弾を落とした 更に3日後の8月9日、B29(このB29は「ボックス・カー」と呼ばれた。)は、午前二時五十六分(現地時間)、十三名の乗員を乗せテニアン島A滑走路を離陸した。 七時四十五分、屋久島上空九千メートルで随伴機一機と会合し、先発した気象観測機から第一目標の 北九州・小倉は快晴が期待できるとの報告を得て、予定通りヒロシマと同じ時刻頃 小倉に原爆を投下することとしていた。 ところが爆撃行程に入って、小倉上空には前夜の八幡攻撃で発生した大量の煙が流れ込んで目標を視認できなかった。 ①(前日の8月8日小倉市の西隣の旧八幡製鉄所を数十機のB29が4T爆弾で集中爆撃しているから 視界が悪くなったのは 当然起こり得る現象だが・・何故こんな非効率な事が挙行されたかは、実は原爆投下命令は米国のペンタゴンでも極秘扱いで、テニアン島には通常爆撃隊と原爆投下隊の命令系統が二つあった事による、大きな疎漏であったようだ・・) 目標は ②小倉兵器処西門近くある 高さがせいぜい5~6階程度の細長い給水塔だったようで、 戦後しばらくは 当方の通った中学の二階校舎からも良く見えた記憶がある。 最近明治150年とかで えらく長州閥の鼻息が荒いと聞くが、当時佐幕派の小笠原・小倉藩は 長州から攻め込まれ、24万石の格式のお城に自ら火を放ち、落ち延びた為、人間万事塞翁ヶ馬 結果から見ると、小倉中心部に目標に出来るほどの 建物がなかった 為 上空から 唯でさえ、見えずらい目標となってしまった様だ・・・ ③更に九千m上空から 精密爆撃するには 我が国の上空は 常に偏西風が流れている為、その目標投下精度が悪く、ペンタゴンからは 通常爆撃隊の司令官でさえ 折々責任を取らされて交代されており、 結果的にこの縛りが効いて 見えずらい目標を定めに南~北~南~北と小倉上空を三度通過した為、 原爆投下に手間取り、流石に下関の小月飛行場からも 此の間 本土防衛隊の戦闘機「飛燕」が離陸をして北九州に向かう情報がはいり、やむなく玄界灘を大きく左回りして 原爆搭載機ボックスカーは 第二目標の長崎に向かうを決断したものであろう・・・。 長崎には高度九千メートルで北西方向から進入したが、千八百~二千五百メートルの間が八十から九十パーセント積雲に覆われていた。 一旦はレーダー爆撃を決心したが、投下寸前に雲の隙間から地上が現れたので、十一時一分これに照準を合わせて原爆を投下した。予定照準点から三キロ北の地点であった。 ![]() 投下後、直ちに急降下しつつ左へ急旋回し、北東へ向け全力で離脱して爆発の衝撃波を避けた後、旋回しつつ観測を続け、沖縄に向け南下して行った。(黙祷・・・当時の長崎市民に合掌・・・。) 知らぬが仏とは云え、3歳のH氏が住んでいた小倉は、真上に都合三度も 原爆投下の目標にされながら、寸前で助かってきた訳で・・・そのどれか一つでも、段取りが異なっていたら・・・ この少年の代わりに私の兄が 満三歳になったばかりの俺(H氏)を背に負い、焼き場の前で 歯を食いしばり。この写真と同じように直立不動で順番待ちをしていたのでは・・・?・・・? ![]() と思うと仇や疎かにできない・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
March 3, 2018 07:38:42 AM
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