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カテゴリ:歴史
「磐井の乱」の戦後処理も片付き、翌年の治世22年(528年)春。 物部麁鹿火が凱旋将軍として飛鳥の都大路を練り歩き、慰労の宴が張られた 皇孫として賜った養子とは言え、稲目は傍系の三国の国造の蘇我若長足尼の娘である神前姫の御子でもあり、蘇我の同族である葛城氏の姫を妃として迎える事に依り、蘇我氏の血脈は子孫に伝わり、学者肌の凡庸な蘇我高麗にとって、蘇我氏の継ぎの役もこれにて無事終わりご先祖に申し訳が立つと大いに慶んだ事だろう。 この折、七十数歳程の蘇我高麗もこれで一安心したのか、程なく老衰で身罷ったが、葛城姫と稲目との初孫の姫御子、堅塩姫(きたしひめ)を膝に抱き取ることが出来たかどうかは不明である。 (注1)・・堅塩姫(きたしひめ)は後に欽明天皇の妃となり、額田部皇女 一方 三韓経営はその後も大小延々と問題続きで、男大迹王(継体天皇)の御宸襟を煩わせ奉った。 八十一歳の治世24年より、天皇は病の為床に伏せる事が多くなり、小康の折、お身内の皇子や皇女を枕元にお呼びした。 それには御年六十三歳の勾大兄皇子、と一つ違いのその弟(いろと)高田皇子(たかたのみこ)始め、末席とは言え 帝の思し召しで 蘇我稲目宿祢や神前皇女も、控えておられた・・・ 目ざとく神前皇女を末席に認めた男大迹王は近くへ呼び寄せ 「よくぞ稲目宿祢をここまで立派に育てた 礼を申すぞ」とお言葉をかけられ、唯々恐れ入り、有難さに涙ぐみ身を震わせ平伏した。 更に高田皇子と、稲目宿祢二人を傍近くに呼び寄せささやいた。 「よいか 姫御子を産むのじゃ そしてあらん限りの姫御子を広庭(ひろにわ)尊に嫁がすのじゃ、我が男大迹王家の血筋を絶やすでない、 いねめよ、そちを臣下に下したは、その儀もあるのじゃ。いずれ 広庭(ひろにわ)尊を助け、父 勾大兄皇子に成り代わり姫御子を増やせよ、励めよ、そのこと夢忘れるでないぞ」と・・ その歳 二十一歳にお成りの広庭(ひろにわ)尊の妃として檜隈高田皇子と橘仲皇女(たちばなのなかつひめみこ)の十三歳にお成りの石姫皇女(いしひめのひめみこ)の御婚儀が恙無く執り行われ、病床の男大迹王にご挨拶に伺候すると「善哉善哉よきかな よきかな」と大層お喜びになられた・・とか。 野太い御声でみずから己の退位を告げ、勾大兄皇子を日嗣の御子とし、帝をお譲りなる旨 宣し給い、皆 涙ながらに平伏し承った。 2月7日、齢八十二歳にして天皇は磐余の玉穂宮で崩御した。 同年 冬12月5日、藍野陵(摂津国三島郡藍野)に葬り奉った。 「継体天皇稜」(三島藍野稜)の程近くの茨木市東太田に女九(めく)神社があり、 (注2)・・以上の成り行きは、日本書紀正史の蘇我高麗の欄に、その妻が韓人であった事だけ記載あり、生没年も不明、その他の彼の業績や成り行きは消されており、あくまで推理・・ 最終的には 第26代継体天皇の御世から遥か第38代天智天皇の御世の治世2年 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
August 6, 2019 04:24:29 PM
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