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カテゴリ:不易流行
元禄四年当時四十七歳の芭蕉が、第二の故郷と慣れ親しんだ大津を立ち、江戸へ向かった目的は何であったのか・・ 流石に芭蕉の名声は江戸中に知れ渡っていたとは言え、元禄四~五年当時の江戸の俳諧は元禄景気に沸きかえり、座敷芸で、出来不出来に点附けして金銭を授受し、江戸商人受けする御用俳諧師が横行する風潮があり、 「軽み」を良しとする蕉風とは中々相容れぬほど退廃後退し、芭蕉には苦々しい限りであったようだ。 元禄五年五月、杉風らの尽力で新築なった芭蕉庵に転居し、後に蕉風門下の重要な支柱となる、彦根藩の森川許六が、桃隣の紹介でほどなく入門し、芭蕉の心強い弟子も増えたりはしたが、江戸での芭蕉自身の私生活面では、思ったほど経済的にも精神的にも余り恵まれなかったようで、色々あって江戸に見切りをつけたのか 『奥の細道』最終稿を曾良に書かせ、それを基に第五代将軍徳川綱吉の側用人柳沢吉保に仕え、能書家で蕉門下でもある柏木素竜(儀左衛門)へ、清書依頼し、やっと清書が完成したのは、江戸下向三年目の元禄七年四月のこと、 翌五月には江戸での選別句会を催し、その清書を江戸で発行するでもなく大事に持ったまま、曾良と、親戚?の二郎兵衛を同道し、伊賀へ帰郷の途についている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
November 5, 2020 03:43:04 PM
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