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カテゴリ:劇評
現在形の批評 #11(舞台)
・SPAC『イワーノフとラネーフスカヤ』『イワーノフとラネーフスカヤ』 前回同様、アングラ演劇巨匠の劇評。 6月11日 静岡芸術劇場 マチネ 演劇前体験でいえば、静岡県まで観劇へ出かけた鈴木忠志演出、アントン・チェーホフ原作、SPAC公演『イワーノフとラネーフスカヤ』(2005年6月11日・静岡芸術劇場)もまさにそうであった。この公演は2000年から毎年開催される「Shizuoka春の芸術祭」の一公演である。今年のテーマは「いまギリシア悲劇が現代を語りだす」。この芸術祭は世界からも演出家を招聘した催しである。今公演も日露文化フォーラム特別企画としてロシア公演でも上演される。 私は鈴木忠志の著書『内角の和』を読み、その俳優論・演劇論に大いに感化させられた。そして今回、ようやく実際の舞台観劇の機会を得たのである。目的はもちろん鈴木忠志が考案した演技術「鈴木メソッド」をこの目で見たいがためである。しかし、その想いとは裏腹に、強烈なパッションを受けることはなく、印象に残ったのは、鈴木忠志の白石加代子への恋慕の念であったことを記しておく。 確かに俳優は硬直した身体を保ち、腹の底から響き渡るように発せられる台詞、下半身に重心を置いた佇まいは様式化された能・歌舞伎といった古典芸能のそれを思わせる。それは知識として認識していた「鈴木メソッド」そのものであった。一つ例を挙げると、『イワーノフ』の場面に出てくる籠の男・籠の女(イワーノフの幻想)と「車椅子の花嫁」(六人)の、全員裸足で移動するコロスである。特に、車椅子の花嫁は左足を折り曲げ、右足の足先のみで移動を強いられている。脚線美と共に力強さを感じさせる場面だ。日常の身体ではありえない束縛を与えられた状態から、それを乗り越えようともがく俳優を通して、私たち観客は人間の可能性の無限大さを感じ取らずにはいられない。 もともと「鈴木メソッド」は、鈴木忠志が率いる早稲田小劇場の劇団員であった「白石加代子の演技-身体の古層を現前化したかのような、猫型湾曲した独特の姿勢を見せる」(村井健『シチュアシオン』135頁)演技から触発されて編み出されたものである。つまり、役をただ単になぞるだけではなく、演技者自身の潜在的可能性を顕現化させるための演技術なのである。 白石加代子の演技に出会った鈴木忠志の衝撃はそれは相当なものだったろう。この女優にしかない特異な演技を普遍的なメソッド化することにより、俳優のまだ見ぬ様々な可能性を引き出すことが当初の目的であった。「白石加代子という匿名のひとりの女性が、無限に白石加代子という実在の人間に変貌しようとする、裏切られた生の燃焼」(鈴木忠志『内角の和』)という言葉に本質が集約されている。しかし、村井健が「白石加代子が白石加代子を演ずるという二重仮構された演技を踏襲すること」(村井前掲書134頁)になると指摘したように、メソッドの強固な規範化は、演技者の自己意識を画一したものにしてしまう側面と背中合わせなのだ。 白石加代子という女優の真骨頂といわれる『劇的なるものをめぐって』シリーズはもちろん観ていないが、ラネーフスカヤを演じた久保庭尚子の姿形はあまりにも白石加代子にそっくりであるので、私は二代目白石加代子を演じているのではないかと思った。もしかすると、鈴木忠志は久保庭尚子にかつて早稲田小劇場を支えた白石加代子を演じさせることで、演出家と俳優ががっぷり四つに組んでいたあの頃をもう一度復活させようととしているのではないだろうかとすら思った。 当日配られた解説チラシによると、『イワーノフとラネーフスカヤ』の作品構造自体、『イワーノフ』は「イワーノフが自殺する直前に自分の過去を回想する形の構成…略…イワーノフは言葉をいくら費やしてみても、誰も悩み苦しんでいる自分を救ってくれないし、新たな理想へ向かって行動することもできない……自分が誰からも理解されないという強迫観念にとらわれ、ついには妄想の世界に逃避し、狂気の世界におちていく」人間であり、『ラネーフスカヤ』は「桜の園を買いロパーヒンの思い出として構成され…略…自分の人生の惨めさと空しさから逃れるために、たくさんのおしゃべり=物語が必要」な人間として鈴木忠志はは演出している。これは明らかに満たされない心情を登場人物に託した鈴木忠志自身の空しさの表れと捉えられないだろうか。 「鈴木メソッド」のモノローグ形式の演技術はディスコミュニケーションの現代における人間の「孤」の様態に重なり、アクチュアルな表現だと思う。しかし、孤独を孤独のままに観客に想いをぶつける事が果たして何が生まれるか。テクストだけを伝えるのは鈴木忠志の演技論ではなかったはずだ。先述したように、演技者自身の身体(生理)リズムが空間を伝わり、観客に伝染させることが目的だったはずで、テクストはそのための材料にすぎない。鈴木忠志は中村雄二郎との対談で、台詞と空間を内面化させ、身体を通すことにより、確固として俳優が舞台上に存在する=立つことの必要性を語っている(『劇的言語』)。静岡芸術劇場は大劇場ではないが、三階席まであり、その舞台機構は音響が客席の背面から聞こえることによって立体感が出るよう、演出できるほどの立派なホールである。「舞台全体の基調である白は喪失感を象徴している」(解説チラシ)ようだが、照明はほとんど俳優の絶望感を表現させるためにピンスポットが多様され、いくら床を白くしても十分にその意図が反映されたとはいえず、むしろ舞台を狭めることはあっても壮大に広げることはなかった。俳優を注目させるために、照明を暗くしたのではないかと深読みまでしてしまう。つまり、設備の豪華さを駆使しても舞台空間を十分に観客に近しく感じさせるまでは至っていなのだ。これは大劇場と小劇場のそもそもの違いであり、問題点でもある。空間を埋めるために「動物性エネルギー」(音響・照明)に頼ってはならないとは、他ならぬ鈴木忠志自身がかつて語ったことである。 最も印象に残るのは『イワーノフ』で、舞台後方にトーテムポールのような長短さまざまな岩があり、そのてっぺんに設えられた籠の中から籠の男と籠の女が顔を出してしゃべるシーン。常に男は女より下に位置する。つまり女性上位に演出しているのである。他にも、籠の女は真っ白な照明がきれいに当たったるが、籠の男にはピンスポットか、籠の女に当てられたこぼれ明かり。花嫁衣裳の女に対し、籠の男は滑稽な風貌だ。-それはイワーノフがユダヤ人の妻アンナを最後まで愛することができなかった理想主義者であり、男の不能性(性的にも経済的にも)の象徴である-。任侠の世界に置き換えた『ラネーフスカヤ』では、ラネーフスカヤは姐御であるが、ガーエフは杖をつき、ロパーヒンは片足を負傷したやくざである。チェーホフの描いたラネーフスカヤは全ての物を失い焦燥のもとにパリへと戻ったのに対し、鈴木忠志の演出したラネーフスカヤには「惨めさと空しさ」はない。むしろ颯爽として、新たなステージへと頭を切り換える姐御の潔い決断が現れている。女は簡単に昔のことを吹っ切れるのだ。両作には女尊男卑が根底に流れている。以上のことを踏まえれば、鈴木忠志にとって白石加代子というかつての仕事仲間が如何に重要であるかが強く印象付けられる。そのことが、この舞台は白石加代子を失ったことによる不能性を表現している舞台ではないかと忖度する理由である。 私は決して鈴木忠志を否定しているわけではない。氏の演劇論には多大な影響を受けているし、今でも演劇を考えるときの根本となっている。ただ、その思いで吸収した理論と実践の作品との狭間に今や乖離が生じていることがまた、巨匠の運命なのかと思わされたのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Apr 11, 2009 02:58:07 PM
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