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Jan 25, 2007
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カテゴリ:劇評
現在形の批評 #53(舞台)

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オリゴ党 『虫のなんたるか。』


1月21日 TORII HALL ソワレ


オリゴ党


集団の総意よ、現出せよ


劇集団とはひとえに、集団的想像力をもってして華麗なる美と醜のシンフォニーを奏でた作品を生み出す作業拠点のことにほかならない。超資本主義の現代において無名の個人が寄り集まって反-経済的なる演劇活動を行うことはいかにも無力である。わずかな足跡も残せずに登場しては散りゆく離合集散が、いかに我々の与り知らぬ所で再生産されてきたかは容易に想像がつくだろう。明治期、西洋の戯曲と演技スタイルを丸ごと輸入し模倣することでもって「新しい演劇」の確立とした。この演劇との不幸な出会い以降、日本はその関係を根底から見つめることなく維持し続けてきた。90年代に入ってからいくらか国家から助成金が出るようになり、その一つの成果として97年に現代演劇専用の新国立劇場が建設された。開場までの演劇人の反応(国家との関係にいて)をも含め、この劇場の建設は、演劇のマイナー性をいくばくか相対化し、演劇の源基的考察も促した。だが、そうしたところで、ドラスティックに状況を転換するようなものではなかった。ここで今一度、劇団を組織し表現するという特異性の根拠を改めて問い返されねばならない。


「美と醜のシンフォニー」が創出されるのはもちろん劇団活動に限ったことではない。作品毎にスタッフ・キャストを集めて公演を行う所謂プロデュース型の方式もそれなりの見せ物として成立してはいる。だが、プロデュース型の多くが企業協賛であったりするためにどうしても話題性、観客動員が先行し、経済主導にならざるをえないため、いきおい作品制作は美学的インパクトを優先させてしまう。演者を華やかにするのがその代表であることは書くまでもないが、そういった「目の欲望」を満たすために物の美学的配置に試行錯誤することと、持続的な小集団活動とは完全に峻別されねばならない。


両者を峻別するもの、それは歴史性と呼べるものでしかないだろう。それを意識することは、まっさらな白紙に油絵の如く幾度も色を塗り重ねて行く作業に似ている。その行為自体が歴史となる。そこには完全なる正解はない。それだけでは何事をも語りえない完結した色と色との交じり合った偶然の配合=関係性が織り成す刹那の輝きに堆積の妙が表れるのだ。その二度と再現不可能な妙技ほど多くを語る時はない。また、無名性が武器となる唯一の生命線でもあるのだ。その時、作品の手から自由になった集団的想像力はどこまでも突き進んでいく無限の許容力を得、日常に確かな亀裂を生じさせることになるだろう。「美と醜のシンフォニー」とは単体のものの羅列による絢爛さやスペクタクルではなく、目には見えない一回毎に更新される初発の思想の開示をさすのである。


そんなことをオリゴ党の『虫のなんたるか』を観ながら考えていたのは、この劇団が結成15年を迎えるというからである。決して短くはない15年という年月を一つの非営利集団が続いたということだけ取ってみても誇れる要素の一つであり、また今後の転轍期となる時期である。集団の成熟が十全に露呈してくる瞬間とはひとえに、はからずも透けて見える貌を垣間見た時ではなかろうか。つまるところそれこそが劇団の思想の表出なのであり、歴史の重みである。小集団をここまで組織してきた歴史性が齎す強みとは、集団内の関係性が即興的に様々な化学反応を起こし、しち面倒な段階を経ることなく、ある高みへと俳優・スタッフの集中力を瞬間的に導く点だ。それは、内在的コミュニケーションを発揮し得る至福の状態だと言える。


しかしだ、鍾乳洞に出入りする様々な人々の人間模様を描くこの作品がいま一つ私の関心を惹かなかったのは、15年におよぶ活動歴を肌身に感じたいという私の動機付けとの隔たりを終始感じたからである。手練手管を尽くして虫と恋愛を絡め、不法投棄問題も登場する物語はどこを、だれを支点にされているのかが掴み難い。空間を二分割して客席を対面式にし、真ん中を横長にして鍾乳洞内の演技フィールドを取っているものの、舞台上に居る役者は戯曲の上で喋ることになっている、対話を交す2者に限られているために出入りが単調。それを目の前で繰り返されることに辛さを感じた。


若者の手によって産声を上げたばかりの劇団には、持て余した表現欲の発露の仕方が確立していないが故に、徒手空拳でもって劇場空間を突き破ってどこまでも疾走する。それは暴力にも似た硬くて粗い表現だが、かえって同志的観客の琴線に触れて力へと反転させることがある。それとは違い、今作が初見のこの集団には、15年間で培ったであろう歴史が紡ぎ出した、確固とした貌を見たかったのである。しかし、それは叶わなかった。端的に言ってしまえば、歴史性が獲得させた劇団のスタイルや個性というものが先立った上での作品創造というプロセスを経られておらず、未成熟な、アマチュア芝居と同様の感を抱かされた。厳密に個別作品と集団の理念のどちらが先行すべきなのかは区分けする事はできないが、少なくとも今日に至るまで何を考え何を矜持として守ってきたのかが核となった上で創造されなければ、せっかくの15年という歴史性が無化されるしかない。15周年記念で成すべき事は、己自身の「集団の物語」を見つめるものにすべきだったのではないか。


集団の思想をはっきりと共有していかなければ、今後さらに劇団活動を続けていくに際しての懸念材料ともなりかねない。息切れ、惰性というエアーポケットに落ち込まず、劇団が劇団であるために少しは自己言及的になる必要があるのではなかろうか。





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Last updated  Jul 31, 2009 01:21:17 PM



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